【あらすじ】※ネタバレあり
ピアニストの糠森ひながブックカフェ『シズカ』を訪れ、氷上静と再会する。二人は過去の空白の時間を埋めるように語り合う。小春が淹れた「凪」というブレンドの珈琲を味わいながら、ひなは静にラジオで聴いた自身の演奏を「素晴らしかった」と褒められ、深く感動する。ひなは、静と小春が築いた完全な調和を目にし、もう孤独な雨の日にだけ会う必要はないことを悟る。
寄港地のピアニスト
秋の陽光が、災害で生まれた湖のきらめきをブックカフェ『シズカ』の店内へ届け、床にくっきりとした光の四角形を描いていた。その光の領域を避けるように、客が一人、厚い学術書に顔を埋めている。レコードプレーヤーからは、キース・ジャレットのケルン・コンサートが、即興の祈りのように静かに流れていた。
ドアベルが、ちりん、と鳴る。
カウンターの内側でネルドリップの準備をしていた中野小春が顔を上げ、氷上静もまた、読んでいた本からゆっくりと視線を上げた。
入ってきた女性の姿に、静の瞳が、ほんの僅か、見開かれた。長い黒髪を緩やかにまとめ、シンプルだが上質なコートを纏ったその佇まい。かつてレコードショップの、湿った雨の匂いの中で出会った、あの鋭敏で、どこか危うげな少女の面影が、そこにはあった。だが、今の彼女は、自分の足で確かな大地を踏みしめる者の、穏やかな強さを身につけている。
糠森ひなだった。
「……ご無沙汰しています、静さん」
ひなは、少しだけはにかむように微笑んだ。その声は、もうあの頃のような、雨音に溶けてしまいそうな儚さはない。
「ええ。お元気そうで、何より。……ひなさん」
静もまた、ごく自然に、その名を口にした。小春は、二人の間に流れる見えない空気の糸を感じ取り、何も言わずに、静かに会釈だけをした。
ひなは、静に促されるまま、窓際の席に腰を下ろす。目の前に広がる湖の風景に、彼女は目を細めた。
「素敵な場所ですね。静さんらしい」
「あなたが好きそうな場所でしょう。少しだけ、現実から浮いている」
静の言葉は、昔と変わらない。だが、その響きには、角の取れたような、温かい響きが混じっていた。
ひなと静が、互いの空白の時間を埋めるように、ぽつりぽつりと、言葉を交わし始める。その穏やかな気配を察しながら、小春が静かにテーブルへ近づいた。
「メニューはございませんが、今日の豆は、穏やかで少し甘い香りのする『凪』というブレンドです。いかがですか」
「まあ……。じゃあ、それを、お願いします」
ひなは、小春の柔らかな物腰に、心地よさを感じながら頷いた。
カウンターの内側に戻った小春が、豆を挽き、湯を沸かす、静かで規則正しい音が、ひなと静の会話の背景に、柔らかなリズムを刻み始める。ひなは、ピアニストとしての活躍の日々を、静は、この場所での穏やかな日常を、互いに報告するというのでもなく、ただ確かめ合うように語り合っていた。
ややあって、小春が湯気の立つカップを、ひなの前にことっと置いた。
「ありがとうございます」
カップに口をつける。珈琲の深くそして優しい香り。それは、静の怜悧な知性と小春の計り知れない受容性が溶け合った、この場所そのものの味がした。
「あなたのピアノ、聴きましたよ」静が、不意に言った。「ラジオで偶然に。……素晴らしい演奏だった」
その飾り気のない言葉に、ひなの胸がきゅうと熱くなる。師である米山共子に何度褒められるよりも、その一言が、ひなの魂の一番柔らかい場所に届いた。
「……ありがとうございます」
ひなは、それだけ言うのが、精一杯だった。
あの雨の日、静の瞳の奥に見た、深い湖。その湖のほとりで、今、自分はこうして珈琲を飲んでいる。失われた時は戻らない。だが、音楽と記憶と、そして人の想いは、こうして新しい景色を紡いでいく。
ひなは、カップの向こうで静と小春がごく自然に視線を交わし、小さく微笑み合うのを見た。そこにあるのは、完全な調和だった。
もう、あの頃のように、雨の日にだけ会う必要はない。
ひなは、ただそう思った。
窓の外で、湖の水面が秋の光を浴びて、どこまでも静かに輝いていた。
了
作・千早亭小倉



