掌編

「二つ目と代弾き」シリーズ

お題008. 練習の彼方と微炭酸の幻影

喫茶「小古庵」。午後の店内は、客がまばらで、柱時計の針が進む音以外、空気が止まっていた。テーブルの上には、氷の溶けかけたアイスティーと、緑色のメロンソーダ。ひなは文庫本に目を落とし、馬楼はストローをくわえて天井を仰いでいる。「でね、俺は思っ...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題007. 練習の死角と紅ショウガの憂鬱

牛丼チェーン「スタミナ太郎」ココアン駅前店の自動ドアが開くたび、湿度を帯びた生温かい風と、排気ガスの焦げた匂いが、店内に充満する甘辛いタレの香りと衝突事故を起こしていた。カウンター席の隅。酔酔亭馬楼は、目の前に置かれた並盛りの丼を、箸でつつ...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題006. 階段落ちと黒歴史

ココアン鉄道の地下駅へ続く階段は、年中湿ったカビと、誰かが落としたガムが黒く化石化したシミとで、薄汚れている。蛍光灯が一本、不規則に明滅して、足元を心許なく照らしていた。「あー、腹減った。駅そばの出汁の匂いってのは、なんでこう暴力的なんだろ...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題005. 不便の天才

新宿S亭の楽屋、出番を終えた馬太郎が、手際よく着物を畳んでいる。その横で、弟弟子の歌吉が、馬楼が忘れていったクタクタの羽織を苦笑いしながら眺めていた。「しかし、馬楼兄さんは、ある意味じゃ天才ですよね」馬太郎が、自分の真っ新な足袋をパチンと弾...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題004. 鉄路の軋みと耳の聖域

高架下の歩道は、湿った鉄錆と、安っぽい揚げ油の匂いが混じり合って停滞している。頭上を、帰宅急行の数千トンが通り過ぎようとしていた。「…………っ」ひなは足を止め、奥歯を噛みしめる。耳を塞ぎたい衝動を、かろうじて理性が抑え込んでいた。彼女にとっ...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題003. 白と黒の不均衡

スタジオの防音扉が閉ざされた密室には、空調の微かな駆動音だけが沈殿している。ひなは、練習の手を止め、グランドピアノの鍵盤蓋フォールボードの黒塗りに映り込んだ、自分の指先を見つめていた。二十五年以上、毎日飽きもせず叩き続けてきた八十八個の並び...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題002. たい焼きの切り身

築四十年の木造アパート「メゾン干物箱」の二階には、昼下がり特有の、煮出したはぶ茶のような香ばしくて気怠い匂いが漂っている。西日が腰をかがめて、破れた障子の隙間から差し込み、畳の上に細長い光の鍵盤を描く。その光の上で、馬楼とひなが向かい合って...
「二つ目と代弾き」シリーズ

お題001. 遠心力と赤い抜け殻

自販機のコンプレッサーが時折、不機嫌そうな唸りを上げる以外、世界は回転するドラムの音だけに塗り潰されていた。乾燥機の排気口から漏れ出る、熱せられた綿埃の匂いが、深夜のコインランドリーの空気を重く塞いでいる。お決まりのムワッ。窓の外の小雨がこ...
ビターここあんシリーズ

おはぎはんの錯覚

表通りから一本外れたパチンコ屋の裏口。派手な刺繍の入ったスカジャンを着た男が、何か黒い物体を拾い上げると、無造作に植え込みの奥へ放り投げた。缶コーヒーの空き缶に違いない。男は、吸っていた煙草の火を、唾で濡らした指で揉み消し、その吸い殻も同じ...
ブックカフェ「シズカ」シリーズ

六月の雨

六月の雨は音もなく、世界の輪郭を静かに滲ませていた。ブックカフェ「シズカ」の大きな窓ガラスを、名前もない筋となった雨水が無言で流れ落ちていく。店内に満ちるのは、焙煎された豆の香ばしさと、古い紙が湿気を吸って放つ微かな甘い匂い。レコードプレー...