ここは、小古庵アトリエ村(ココアン村)。東京の豊島区、新宿区、中野区、練馬区、板橋区との境界に位置する、どこにも属さない架空の「村」。その存在は豊島区内にあるとも、区境にまたがっているとも言われ、人々の認識によって姿を変える。かつての「長崎アトリエ村」の流れを汲むような芸術家たちが集まり、創作活動と生活を一体化させた共同体として成立した。
【登場人物】
徒 然士(ただ ぜんじ):完璧な様式美を信奉する、気難し屋の文芸評論家。
生地 こね子(きじ こねこ):パンへの愛情と探求心が人一倍のパン職人。物事をパン作りに喩えがち。
山田 花(やまだ はな / おはなはん):FMココアンのミキサー。努力家で前向きな、常識人。
おはぎはん:面白そうなことには即行動の、猪突猛進型ジャーナリスト魂を持つライター。おはなはんの妹。
【場面設定】
小古庵アトリエ村のはずれ。雑草の生い茂る、少し開けた場所。 錆びて文字の消えかけた「小古庵アトリエ村」の古い看板が斜めに立っている。遠くには、西日に照らされた池袋のサンシャイン60が、まるで蜃気楼のようにそびえている。
(徒然士、こね子、おはなはんの三人が、とりとめもなく景色を眺めている)

ふむ。(細めた目でサンシャイン60を眺めながら)あの建造物も、遠目に見れば、それなりの様式美を保っていると言えなくもない。豊島区の、ぎりぎりの矜持といったところか。

ほんとですねえ。でも、ここからサンシャインが見えるって、なんだか不思議な感じです。私たち、ちゃんと豊島区の中にいるんでしょうかね?

(おはなはんを咎めるように見て)山田くん、君は根本的な誤解をしている。ここは豊島区などではない。そして「区」でもない。ココアンアトリエ「村」だ。その定義を曖昧にすること自体が、実に、野暮の極みだ。

あら、でも徒然士先生。あたしには、ここって、一次発酵が終わったパン生地みたいに見えるんですよ。(両手で空中に大きな円を描きながら)型(ボウル)からはみ出しちゃってるけど、これからガス抜きして丸め直す前の、いちばん自由で、どこに属してるか分かんない状態、みたいな。

生地くん、君のその比喩は、いつだって具体的すぎて、かえって本質から遠ざかる。問題は、パン生地がどうかなのではなく、我々の文化的アイデンティティがどこに立脚しているか、ということだ。

(やれやれ、という顔で)
でも、納税通知書は豊島区から来ますよね…?

それは行政上の便宜的な区分けに過ぎない!
我々の精神は、そんな俗なるものに縛られてはならんのだよ!
(そこへ、取材用のメモ帳を片手に、おはぎはんが息を切らせてやってくる)

はあ、はあ…! みなさん、こんなとこにおったんですか!
次の『FMココア/ン』の特集、「ココアン村の謎を追え!」に決まりましたで!

だから、「村」だと言っているだろう!

(徒然士の言葉を完全に無視して)で、最初の謎がこれですわ! 「我々は、いったい何者なのか⁉」。このココアン村は、豊島区の地図に載っているようで載っていない! この曖昧な存在、ジャーナリスト魂が燃えますわ!

あら、おはぎはん。ちょうどその話をしてたのよ。
あたしはパン生地だと思うんだけど。

パン生地……? (首をひねり)まあ、ええわ!
とにかく、区役所…いや、村役場?……に行って、
公式見解を取材してきます! これで白黒つきますわ!

(困ったように笑いながら)おはぎはん、役所なんてないのよ、ここには。

えっ⁉

当たり前だろう。我々の自治は、役所のような画一的なシステムではなく、個々の美意識の総意によって、かろうじて成り立っているのだから。

な、なんですて⁉ ほな、あたしたちは不法占拠しとる、
ただの……ただの……

……過発酵のパン生地?

それや! ……って、ちゃうわ!
(頭を抱えて)あかん、記事にならへん!
根拠が、エビデンスが、何もないやないの!

ふん。だから、言ったのだ。ここは、物理的な場所ではない。我々が「小古庵アトリエ村」だと信じる、その精神性の謂(いい)なのだと。サンシャインが見えようが、見えまいが、我々の様式美は揺るがない。

そうかしら。あたしは、やっぱりパン生地だと思うけどなあ。毎日こねて、焼いて、ここの水と空気でパンを作ってる。その営みそのものが、ここの輪郭を作ってる気がする。だから、ここの外で焼いたら、もう同じ味にはならない。そういうことじゃないかしら。

うーん……あたしは、ただ、みんながいて、お店があって、時々こうして夕日が見られて……それで、いいんじゃないかなあって思いますけど。名前なんて、どっちでも。

(何かを閃いたように顔を上げ)……そうか! 分かったで! ここは「謎」なんや! 誰にも答えが分からん! せやから、あたしが一生かけて取材できる、最高のネタの宝庫なんや!
(四者四様の結論が出たようで、出ていない。誰もが、自分の信じたい答えを見つけただけの、奇妙な満足感が、その場を支配する)

……まあ、そういうことにしておいてやろう。
(四人は、黙って、再び遠くのサンシャイン60に目をやる。あの巨大な建造物は、彼らの小さな論争など知る由もなく、ただ黙って、東京の空に突き立っている)

……ねえ。

なんだね。

あのサンシャイン60は、今、豊島区を見てるんでしょうか。それとも、あたしたちを見てるんでしょうか。
(その、あまりに素朴で、哲学的な問いに、誰も答えることはできなかった。ただ、茜色に染まっていく空の下、四つの小さな影が、地面の上に長く伸びていくだけだった。
おしまい



