【登場人物】
郷田 剛:克枯町商店街会長。彼の認識フィルターを通すと、森羅万象は「郷田を称えるための舞台装置」に変換される。
矢尾 玲子:きさらぎタウンの主婦、自称ステキさん。彼女の認識フィルターを通すと、あらゆる事象は「ステキな自分」を修飾する形容詞となる。
伊武 人具:映画館「夕日座」の支配人。虚構を扱う職人だが、生活においては徹底したリアリスト。
【場面設定】
夕暮れ時の克枯町商店街。路上の真ん中に、「得体の知れない銀色の物体」が落ちている。西日を反射して神々しく光っているそれを挟んで、郷田会長と矢尾玲子が対峙している。少し離れたところで、伊武支配人が竹ぼうきを持って呆れ顔で立っている。

(銀色の物体を指さし、興奮して)伊武ちゃん、見ろ! こいつは「啓示」だ! 俺の銅像を建てるなら、素材はブロンズじゃねえ、プラチナにしろっていう天からのメッセージだ! この輝き、まさに俺のリーダーシップそのものじゃねえか!

(郷田を完全に無視し、うっとりと物体を見つめ)いいえ、あしからず。これは「涙」よ。パリの天使が、今日のステキさんのステキぶりに感動して落とした、銀色の涙の結晶。……ああ、路上の汚れすらもドレスに変えてしまうステキさん、罪作りだわ。

(竹ぼうきに顎を乗せ)……あんたたち、眼科行った方がいいぞ。どう見ても、ただのゴミだろ。

ゴミだと!? 貴様には、この「俺を肯定するオーラ」が見えねえのか! 俺の網膜にはな、こいつが「G」の形に見えてるんだよ! 郷田(Gohda)のGだ!

ステキさんの網膜には「S」に見えているわ。ステキ(Suteki)のSよ。ねえ、このフォルム、ステキさんの鎖骨のラインにそっくりだと思わない? つまり、世界が私を模倣し始めたってことね。

カントの言う「空間と時間の形式」ってやつか? ずいぶん都合のいいOSが入ってんだな、あんたらの脳みそには。

カント? 隣の商店街の会長か? そんなことより伊武ちゃん、これを「郷田・プラチナ・メテオ」として祀るぞ。賽銭箱を持ってこい!

品のないこと。これはステキさんが持ち帰って、ブローチにするの。名付けて「孤高の輝き、それは私」。来週のホームパーティで、きさらぎタウンの奥様方の視線を独り占めよ。

(ため息をつき)……おい、よせ。触るな。

止めるな! これは俺が認識したから存在したんだ! 俺が見なけりゃ、こいつはただの無だ!

いいえ、ステキさんのステキ意識というフィルターを通った瞬間に、これは「アート」へと昇華されたの。触れる権利があるのは、発見者であるステキさんだけよ。

だから、やめとけって。それは……
(郷田と玲子、同時に銀色の物体に手を伸ばし、掴む)

あっ!
(二人の表情が、恍惚から一瞬で虚無へと変わる。手の中で、銀色の物体がグシャリと潰れ、中からドロリとした茶色い液体が漏れ出す)

……ほら言わんこっちゃない。それは、映画館のバイトがさっき落とした、食いかけの「チョコモナカジャンボ」の包み紙だ。しかも、溶けてる。

(手がチョコまみれになり)……ぬるい。

(手がチョコまみれになり)あ〜ん、ベトベトする。

それが、あんたらの色眼鏡を外した、そいつの「物自体」だよ。認識できない領域には、触れねえ方が幸せだったな。

(震える手を見て)……いや、違う! これは「試練」だ! 甘い汁を吸うには、泥にまみれる覚悟が必要だという、帝王学の教えだ!

(ハンカチで必死に拭きながら、顔を引きつらせて笑顔を作り)……そうね。これは「保湿クリーム」よ。カカオポリフェノールたっぷりの、最先端の美容液だわ。……なんてステキなサプライズかしら、オホ、オホホホ!

……頑丈なOSだなあ、おい。バグ知らずかよ。
(伊武、呆れて再び掃き掃除を始める。郷田と玲子は、チョコまみれの手を掲げたまま、それぞれの「真理」を叫び続けている)
(幕)

【解説】カントの「コペルニクス的転回」:世界の見方を変える
カントのお話を少しだけ。ええと、カント以前の哲学者は二つの派閥で喧嘩していたらしいのね。
「理性こそ全て!」(大陸合理論)という、頭で考えれば真理に辿り着ける派(デカルトとか)と、「経験こそ全て!」(イギリス経験論)という、実験や観察以外は信じない派(ヒュームとか)。
でも、ヒュームが「昨日の後に今日が来たからって、明日も来るとは限らないじゃん?」と言い出して、科学の基礎(因果律)が揺らいじゃった。そこに登場したのが、カント。「喧嘩はやめなよ。そもそも『人間が認識する』ってどういうことか見直そうぜ」って。
これが「コペルニクス的転回」よ。
昔は「人間の認識が、対象(世界)に一致する」と思われていたのね。カントはこれうぇお逆転させたの。「対象(世界)が、人間の認識の形式に従う」のだって。
つまり、「世界がそこにあるから私たちが見る」のではなく、「私たちが『人間専用のメガネ』を掛けているから、世界がそう見えているだけ」ということ。
第1段階:感性(入力装置)のフィルター
まず、私たちは情報をキャッチする。でも、生のデータをそのまま受け取ってるわけではない。
人間には生まれつき、「空間」と「時間」っていう型が備わっている。これを「直観の形式」と言うのね。
例えば、ステキさんのステキなファッションの画像。あなたがこれを見られるのは、スマホという画面(空間)と、今という瞬間(時間)があるからでしょう?
空間と時間がないと、人間はそもそも何も感じ取れない。これは経験する前から決まっているルール(ア・プリオリ)なの。
第2段階:悟性(処理装置)のフィルター
次に、目や耳から入ったデータを、脳で処理して「これはステキさんだ」「これは愛だ」と理解する。この処理能力を「悟性」と言うの。
ここにも、「カテゴリー」っていう、生まれつきのルールがあるのね。「原因と結果(因果律)」とか「一つか、たくさんか」といった思考の枠組みね。
カントの名言にこういうのがあるの。
「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」
データがないと思考は空っぽだし、思考がないとデータはただのノイズ。両方が揃って初めて、私たちは「認識」ができる。
物自体(Ding an sich):絶対に触れられない領域
ここからがカントの残酷で美しい結論よ。
私たちは「空間・時間メガネ」と「カテゴリー処理」を通してしか世界を見られない。つまり、私たちが見ているのは「現象(Phenomena)」としての世界だけ。その背後にある、本当の真実――メガネを外したありのままの世界、これをカントは「物自体(Noumena)」と呼んだわ。
人間は、どう頑張っても「物自体」には絶対に触れられない。
「神様はいるの?」「魂はあるの?」「宇宙の果ては?」
これらは人間の認識フィルター(空間・時間)を超えているから、理性で証明しようとするとバグる(二律背反)の。
だからカントは言ったわ。「理性の限界を知れ」と。
理性が踏み込めない領域(物自体)があるからこそ、そこに「信仰」や「道徳」の居場所が残されるんだ、ってね。
要約すると
結局、カントが言いたかったのはこういうこと。「人間は自分の脳のスペック(OS)の範囲内でしか世界を見られない。だから、神様とか死後の世界とか、OSの対応外のことを論理で証明しようとするのは無駄だ。諦めて、認識できる範囲の科学をしっかりやろうぜ。でも、分からない領域(物自体)があるってことは忘れんなよ」


