【登場人物】
氷上 静(ひかみ しずか):現代思想家兼ブックカフェオーナー。世界を完璧な論理で整理したいが、物理的な「糊」や「汚れ」といった現実の粘着性に弱い。
【場面設定】
深夜のブックカフェ「シズカ」の厨房。
営業が終わり、静けさに満ちた空間。静は、自治体の「ゴミ出しカレンダー」と、空になった「高級洋菓子の箱」を交互に見つめ、眉間に深い皺を寄せている。
(静、美しい装丁の空き箱を、まるで爆発物処理班のように慎重に手に持っている)

……さて。この箱の「存在論的地位」を確定させなくてはならないわね。
(箱を裏返し、リサイクルマークを確認する)

外箱は「紙」。内側の仕切りは「プラ」。ここまでは明快。デカルト的二元論のように美しい区分けだわ。しかし……問題は、この「窓」ね。
(静、紙箱の一部に貼り付けられた、中身を見せるための透明なフィルム部分を指先でなぞる)

紙の箱に、強力な接着剤で融合されたプラスチックの窓。……メーカーは、消費者の「中身を見たい」という窃視的な欲望を満たすために、この異種交配を生み出した。だが、処分の段になって、そのツケを私に払わせようというのね。
(静、爪を立てて、フィルムの端をカリカリと引っ掻く。フィルムは微動だにしない)

……硬い。拒絶されている。この接着剤の強度は、資本主義の強欲さそのものね。
(さらに力を込める。紙の表面が少し剥がれるが、フィルムは取れない。静、小さく舌打ちしそうになり、理性でこらえる)

冷静になりなさい、静。これは物理の問題よ。力点と作用点。……エイッ。
(ビリッ。鈍い音とともに、フィルムは剥がれるどころか、箱の紙を汚く引きちぎりながら、中途半端に裂けた)

……なんてこと。「紙」の尊厳も、「プラ」の純粋性も、共倒れじゃない。これでは、紙ゴミとしても、プラゴミとしても「不純」だわ。
(静、無残な姿になった箱を前に、腕を組んで思索に耽る)

自治体の条例第4条。「紙製容器包装から、容易に分離できない異素材がある場合は、可燃ゴミとして排出することができる」。……「容易に分離できない」。ここが争点ね。
(破れた箱を見つめる)

私の爪が割れるほど力を込めれば、あるいは剥がせるかもしれない。だけど、それは「容易」の範疇を超える労働よ。つまり、私の指先の痛みが、この物体の法的地位を変えるトリガーになるということ?
(静、ハサミを取り出し、手術のように切り離そうとするが、糊のベタベタがハサミの刃にくっつく)

……ああ、不快だわ。この、論理で割り切れない粘着質。まるで、議論の途中で「生理的に無理」と言い出す誰かさんのようだわ。
(静、ハサミを置く。そして、深く息を吐き、少し遠い目をする)

……待って。視座を変えましょう。燃焼とは何か。それは、物質の化学的結合を熱エネルギーによって解体し、灰へと還す「究極の平等化」よ。
(静、箱をうやうやしく持ち上げる)

この地域の焼却炉は、最新の高温ガス化溶融炉だと聞いているわ。1300度。……その灼熱の煉獄において、紙とプラスチックの些末な違いに、どれほどの意味があるというのかしら?
(静、自分に言い聞かせるように頷く)

そうよ。分別という行為は、物質への敬意であると同時に、私たちの罪悪感を軽減するための儀式に過ぎない。私が今、これを無理に引き剥がし、指先をベタベタにしながら分別することより、炉の圧倒的な熱量に全てを委ね、原子レベルでの再会を願うことこそが、この箱に対する真の供養……。
(静、流れるような動作で、分別など最初からなかったかのように、箱を「燃えるゴミ」のペールに放り込む)

……さようなら、ハイブリッドな怪物。熱的死の彼方で、純粋な炭素におなりなさい。
(静、手を洗い、タオルで丁寧に拭く。ふと、ゴミ箱から微かに箱の角が飛び出しているのが目に入る)

……はみ出しているわね。私の良心のように。
(静、無言でゴミ箱の蓋を押し込み、見なかったことにして電気を消す)

(暗闇の中で)ねえ。完璧な分別って、人生に必要なのかしら?
(幕)



