お題006. 階段落ちと黒歴史

ココアン鉄道の地下駅へ続く階段は、年中湿ったカビと、誰かが落としたガムが黒く化石化したシミとで、薄汚れている。蛍光灯が一本、不規則に明滅して、足元を心許なく照らしていた。

「あー、腹減った。駅そばの出汁の匂いってのは、なんでこう暴力的なんだろうな」

前を行く真っ赤なジャンパーの背中が、腹をさすりながら軽口を叩く。ひなは、その後ろを一段開けてついていく。ヒールのコツ、コツという硬質な音が、コンクリートの壁に反響して耳に障る。

「馬楼さん、足元。靴紐、ほどけて……」

言いかけた、その時だった。馬楼の赤いスニーカーが、古びた階段の滑り止め金具ノンスリップの上で、漫画のようにツルリと空転した。

「ぬぉっ!?」

重力が仕事を放棄した一瞬。馬楼の身体が宙に浮く。ひなは反射的に手を伸ばした。目の前でひっくり返る赤い塊を支えようと。指先が、馬楼の腕に触れそうになる。

パァン!

乾いた音が響いた。馬楼が、差し出されたひなの左手を、自分の手背で払ったのだ。支えをつかみそこなった馬楼は、そのまま独りゴム鞠が転がるように、残りの五段を見事に背中で滑り落ちていった。

ドサッ、グエッ。

踊り場に、赤い粗大ゴミが出来上がった。

「……っ、なによ、もう!」

ひなは弾かれた手の甲をさすりながら、階段を駆け下りる。埃まみれになって呻いている馬楼を見下ろすと、怒りよりも先に、そのあまりにも見事な「への字」への折れ曲がり方に、不謹慎な笑いが込み上げてきた。

「ふ、ふふっ……大丈夫? 受け身、取れてないじゃない」

「いててて……尻が……尻が割れた……」

「元から割れてます」

馬楼は腰をさすりながら、よろよろと立ち上がる。ズボンの尻についた埃を払う仕草が、妙に哀愁を帯びていた。

「階段でもすべるなんて、ほんと、馬楼さんらしいわ」

ひなが口元を押さえて笑うと、馬楼がムッとした顔で振り返った。眼鏡が少しズレている。

「へえ、仰るねえ。じゃあ聞くけどさ、完璧超人のピアニスト様は、階段でコケたり、失敗したりしたことはないわけ?」

「……え?」

「あるだろ? 人間だもの。叩けばほこりの一つや二つ」

馬楼の挑発的な視線。ひなは、明滅する蛍光灯を見上げた。地下特有の淀んだ空気を吸い込む。数秒の沈黙の後、彼女は視線を足元の薄汚れたコンクリートに落とした。

「……十年前」

「あん?」

「だから、十年前。ここ、この階段よ」

ひなは、馬楼が転がり落ちたばかりの階段を、爪先でトントンと叩いた。

「音大の新歓コンパでね。ジュースだと思って飲んだのが、カシスオレンジの濃いめだったの。……私、今よりもっとお酒に弱くて」

「ほう」

「記憶が飛んで、気がついたら朝の五時半。私、ここで寝てたの」

馬楼が目を見開く。

「ここで? この、薄汚い階段で?」

「そう。仰向けで。すやすやと、朝の五時まで。もう、ミニのドレスだったんだから」

ひなは、そこまで言って口をつぐんだ。始発の通勤客たちが、階段に転がる「若い死体」を、生ゴミを見るような目で跨いでいった感覚。コンクリートの冷たさが頬にへばりついていた感触。それは、糠森ひなの輝かしいキャリアにおける、消し去りたい汚点。

「ぶっ……! わはははは!」

馬楼が、腰の痛みも忘れて爆笑した。駅の構内に、声が通ること、通ること。

「マジか! すまし顔のひなが、ここでパンチラ野宿!? 傑作だ! いやあ、いい話聞いた!」

「笑わないでよ! もう、一生の不覚なんだから!」

「いやいや、偉いよ。普通ならそこで酒断ちするところを、懲りずに飲み続けて、今じゃ立派な酒乱だもんな。継続は力なりだ」

「褒めてない! それに酒乱じゃない!」

ひなは顔を真っ赤にして、右手を振り上げた。バシッと背中を叩いてやろうと思ったのだ。だが、その手が空中で止まる。

馬楼が、笑うのをやめて、ひなの振り上げた手をじっと見ていたからだ。いや、見ているのは手全体ではない。 その「指先」だ。

「……あ」

ひなの脳裏に、数分前の映像がフラッシュバックする。転倒の瞬間。ひなが伸ばした手を、馬楼は乱暴に払いのけた。拒絶ではなかった。もし、道連れにしていたら……。咄嗟に、自分の身ひとつで落ちることを選んだ?

(ピアニストの指だから……)

ひなの手が、ゆっくりと下ろされる。自分の白く細い指と、埃で汚れた馬楼の手のひらを見比べる。心臓の奥が、変な音を立てた。

「……あのさ」

「なんだよ、叩かねえのかよ」

馬楼は、バツが悪そうに視線を逸らし、ポケットに手を突っ込んだ。

「さっき、手……払ったのって……」

「蚊がいたんだよ。でっかいやぶ蚊が」

「こんあ季節にやぶ蚊なんていないわよ」

「いたんだよ。俺には見えたの。……行くぞ。腹減ってるんだって」

馬楼は、ひなの言葉を遮るように、背中を向けて歩き出した。その耳が、蛍光灯の下で少し赤くなっているのが見える。 野暮な真実は語らない。それが、この不器用な男の美学なのかもしれない。

「……ありがと」

ひなは、聞こえるか聞こえないかの声で呟き、自分の左手をそっと握りしめた。

「ちょっと、馬楼さん、待ってよ」

「遅えよ、置いてくぞ」

馬楼が、早足で改札への階段を下りていく。照れ隠しで加速するその足取りは、どう見ても危なっかしい。

「そんな急ぐと、またすべるから……」

ひなの忠告が、湿った空気に溶けるより早かった。改札前の最後の三段で、赤いスニーカーが再び虚空を蹴った。

「あべしっ!」

短い断末魔と共に、馬楼が本日二度目の着地を決める。ひなは、呆れを含んだため息を一つ吐くと、その背中を追いかけて、ゆっくりと階段を下りていった。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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