ココアン鉄道の地下駅へ続く階段は、年中湿ったカビと、誰かが落としたガムが黒く化石化したシミとで、薄汚れている。蛍光灯が一本、不規則に明滅して、足元を心許なく照らしていた。
「あー、腹減った。駅そばの出汁の匂いってのは、なんでこう暴力的なんだろうな」
前を行く真っ赤なジャンパーの背中が、腹をさすりながら軽口を叩く。ひなは、その後ろを一段開けてついていく。ヒールのコツ、コツという硬質な音が、コンクリートの壁に反響して耳に障る。
「馬楼さん、足元。靴紐、ほどけて……」
言いかけた、その時だった。馬楼の赤いスニーカーが、古びた階段の滑り止め金具の上で、漫画のようにツルリと空転した。
「ぬぉっ!?」
重力が仕事を放棄した一瞬。馬楼の身体が宙に浮く。ひなは反射的に手を伸ばした。目の前でひっくり返る赤い塊を支えようと。指先が、馬楼の腕に触れそうになる。
パァン!
乾いた音が響いた。馬楼が、差し出されたひなの左手を、自分の手背で払ったのだ。支えをつかみそこなった馬楼は、そのまま独りゴム鞠が転がるように、残りの五段を見事に背中で滑り落ちていった。
ドサッ、グエッ。
踊り場に、赤い粗大ゴミが出来上がった。
「……っ、なによ、もう!」
ひなは弾かれた手の甲をさすりながら、階段を駆け下りる。埃まみれになって呻いている馬楼を見下ろすと、怒りよりも先に、そのあまりにも見事な「への字」への折れ曲がり方に、不謹慎な笑いが込み上げてきた。
「ふ、ふふっ……大丈夫? 受け身、取れてないじゃない」
「いててて……尻が……尻が割れた……」
「元から割れてます」
馬楼は腰をさすりながら、よろよろと立ち上がる。ズボンの尻についた埃を払う仕草が、妙に哀愁を帯びていた。
「階段でもすべるなんて、ほんと、馬楼さんらしいわ」
ひなが口元を押さえて笑うと、馬楼がムッとした顔で振り返った。眼鏡が少しズレている。
「へえ、仰るねえ。じゃあ聞くけどさ、完璧超人のピアニスト様は、階段でコケたり、失敗したりしたことはないわけ?」
「……え?」
「あるだろ? 人間だもの。叩けばほこりの一つや二つ」
馬楼の挑発的な視線。ひなは、明滅する蛍光灯を見上げた。地下特有の淀んだ空気を吸い込む。数秒の沈黙の後、彼女は視線を足元の薄汚れたコンクリートに落とした。
「……十年前」
「あん?」
「だから、十年前。ここ、この階段よ」
ひなは、馬楼が転がり落ちたばかりの階段を、爪先でトントンと叩いた。
「音大の新歓コンパでね。ジュースだと思って飲んだのが、カシスオレンジの濃いめだったの。……私、今よりもっとお酒に弱くて」
「ほう」
「記憶が飛んで、気がついたら朝の五時半。私、ここで寝てたの」
馬楼が目を見開く。
「ここで? この、薄汚い階段で?」
「そう。仰向けで。すやすやと、朝の五時まで。もう、ミニのドレスだったんだから」
ひなは、そこまで言って口をつぐんだ。始発の通勤客たちが、階段に転がる「若い死体」を、生ゴミを見るような目で跨いでいった感覚。コンクリートの冷たさが頬にへばりついていた感触。それは、糠森ひなの輝かしいキャリアにおける、消し去りたい汚点。
「ぶっ……! わはははは!」
馬楼が、腰の痛みも忘れて爆笑した。駅の構内に、声が通ること、通ること。
「マジか! すまし顔のひなが、ここでパンチラ野宿!? 傑作だ! いやあ、いい話聞いた!」
「笑わないでよ! もう、一生の不覚なんだから!」
「いやいや、偉いよ。普通ならそこで酒断ちするところを、懲りずに飲み続けて、今じゃ立派な酒乱だもんな。継続は力なりだ」
「褒めてない! それに酒乱じゃない!」
ひなは顔を真っ赤にして、右手を振り上げた。バシッと背中を叩いてやろうと思ったのだ。だが、その手が空中で止まる。
馬楼が、笑うのをやめて、ひなの振り上げた手をじっと見ていたからだ。いや、見ているのは手全体ではない。 その「指先」だ。
「……あ」
ひなの脳裏に、数分前の映像がフラッシュバックする。転倒の瞬間。ひなが伸ばした手を、馬楼は乱暴に払いのけた。拒絶ではなかった。もし、道連れにしていたら……。咄嗟に、自分の身ひとつで落ちることを選んだ?
(ピアニストの指だから……)
ひなの手が、ゆっくりと下ろされる。自分の白く細い指と、埃で汚れた馬楼の手のひらを見比べる。心臓の奥が、変な音を立てた。
「……あのさ」
「なんだよ、叩かねえのかよ」
馬楼は、バツが悪そうに視線を逸らし、ポケットに手を突っ込んだ。
「さっき、手……払ったのって……」
「蚊がいたんだよ。でっかいやぶ蚊が」
「こんあ季節にやぶ蚊なんていないわよ」
「いたんだよ。俺には見えたの。……行くぞ。腹減ってるんだって」
馬楼は、ひなの言葉を遮るように、背中を向けて歩き出した。その耳が、蛍光灯の下で少し赤くなっているのが見える。 野暮な真実は語らない。それが、この不器用な男の美学なのかもしれない。
「……ありがと」
ひなは、聞こえるか聞こえないかの声で呟き、自分の左手をそっと握りしめた。
「ちょっと、馬楼さん、待ってよ」
「遅えよ、置いてくぞ」
馬楼が、早足で改札への階段を下りていく。照れ隠しで加速するその足取りは、どう見ても危なっかしい。
「そんな急ぐと、またすべるから……」
ひなの忠告が、湿った空気に溶けるより早かった。改札前の最後の三段で、赤いスニーカーが再び虚空を蹴った。
「あべしっ!」
短い断末魔と共に、馬楼が本日二度目の着地を決める。ひなは、呆れを含んだため息を一つ吐くと、その背中を追いかけて、ゆっくりと階段を下りていった。
了
作・千早亭小倉
●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)
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