お題007. 練習の死角と紅ショウガの憂鬱

牛丼チェーン「スタミナ太郎」ココアン駅前店の自動ドアが開くたび、湿度を帯びた生温かい風と、排気ガスの焦げた匂いが、店内に充満する甘辛いタレの香りと衝突事故を起こしていた。

カウンター席の隅。酔酔亭馬楼は、目の前に置かれた並盛りの丼を、箸でつつくばかりで一向に口に運ぼうとしない。その横顔は、哲学的な思索に耽っているようにも見えるが、単に二日酔いの胃袋が牛肉の脂を受け入れるか否かの審議を行っているだけである。

「兄さん、食べないんですか? 肉、冷えて蝋細工みたいになってますよ」

隣で特盛を平らげようとしている弟弟子の歌吉が、口元についた米粒も気にせず言った。歌吉は、馬楼より三つ年下だが、世渡りの上手さと胃袋の強靭さでは、とうに兄弟子を追い抜いている。

「うるせえな。今、熊さんと相談してんだよ。食うべきか、食わざるべきか」

「またそれですか。兄さん、最近おかしいですよ。この前だって、楽屋で何もない空間に向かって『火鉢が熱い』って叫んで、自分の指、ふうふうしてましたよね」

歌吉が呆れたように茶をすする。馬楼は、ちぇっと舌打ちをして、ようやく牛肉を一切れ、口に放り込んだ。

「あれはVRだ、ブイアール。バーチャル・リアリティだよ。お前みたいなアナログ人間には分からねえだろうがな、今の時代、仮想空間に江戸の長屋を再現して、そこで稽古するのがトレンドなんだよ」

「とれんど、ねえ」

「ああそうだ。ゴーグルかければ、目の前に八五郎もいれば、熊五郎もいる。煙管きせるの煙の向こうに、長屋の煤けた梁まで見えるんだ。没入感が違うね、没入感が」

馬楼は得意げに鼻を鳴らす。だが、歌吉の目は冷ややかだ。

「へえ。で、その没入感とやらのおかげで、昨日の高座、どうなりました?」

「……」

「扇子を持つ手が、完全にゲームのコントローラーを握る形になってましたよね。ご丁寧に、親指でボタン連打する動きまでして。お客さん、キョトンとしてましたよ。『あの落語家、高座でマリオカートでもやってんのか』って」

馬楼は言葉に詰まり、紅ショウガの入った容器を睨みつけた。図星だった。仮想の火鉢で手を温める感覚は完璧だったが、現実の筋肉はプラスチックのコントローラーの感触を記憶しすぎていたのだ。師匠のなまくらからは「お前の熊さんは、なんでそんなに指がつりそうなんだい?」と真顔で心配されたばかりだ。

「……新しい試みには、痛みが伴うもんだ」

「痛みっていうか、ただの誤作動でしょう。それに兄さん、この前は『骨伝導』だとか言って、耳に変な機械つけて稽古してましたけど、あれもどうなんです?」

歌吉の追及は容赦がない。

「骨伝導はいいぞ。自分の声が頭蓋骨に直接響くからな、小さな声でも脳に刻み込まれる。壁の薄いアパートでも、隣人からの壁ドンを恐れずに深夜まで稽古ができる画期的なシステムだ」

「で、結果は?」

「……高座に上がったら、身体が『ささやき声』をデフォルト設定にしちまってな。一番後ろの客席まで届くはずの声が、蚊の鳴くようなウィスパーボイスになった」

「怪談話じゃないんだから」

歌吉は、空になった丼を置き、ごちそうさま、と手を合わせた。

「兄さん、悪いけど俺、先に出ますね。これからちょっと、野暮用がありまして」

「野暮用? お前、また合コンか? いい身分だな、おい」

「違いますよ。……ま、似たようなもんですけど」

歌吉はニヤリと笑うと、伝票を掴んで席を立った。自動ドアが開く。外の喧騒が一瞬だけ店内に雪崩れ込み、そしてまた遮断される。歌吉の背中は、迷いなく夜の街へと消えていった。

取り残された馬楼は、半分以上残った冷えた牛丼と、赤々とした紅ショウガの山を見つめた。

店内には、深夜特有の気だるい空気が澱んでいる。向かいの席では、サラリーマンがスマホを見ながら機械的に箸を動かしている。

(……言えねえ。あいつには、死んでも言えねえ)

馬楼は、歌吉には決して明かさなかった、もう一つの「練習の失敗」を思い出し、身震いした。

それは、「路上練習」での出来事だ。

公園での発声練習が「うるさい」と近隣住民に通報され、行き場を失った馬楼が編み出した苦肉の策。それが、「スマホで通話しているふり」をしながら、街中を歩いて噺をさらうというメソッドだった。

これなら、どれだけ大声で喋っても、身振手振りを交えても、「ああ、激しい電話をしている痛い人だな」と思われるだけで、不審者として通報されるリスクは激減する。現代社会の隙間を突いた、完璧なカモフラージュのはずだった。

あの日、馬楼は『厩火事うまやかじ』をさらっていた。

嫉妬深いおかみさんが、亭主の愛情を試そうとする噺だ。感情が乗り、馬楼は雑踏の中で、スマホを耳に当てたまま絶叫した。

「あたしとお前と、どっちが大事なんだい! ええっ!? はっきりしておくれよ!」

通行人がギョッとして振り返る。だが、馬楼は止まらない。役に入り込んでいる。これは電話だ。痴話喧嘩だ。そう自分に言い聞かせ、さらにヒートアップする。

「黙ってないで何とかお言いよ! この、穀潰し! 能無し! 唐変木!」

罵倒のレパートリーが尽きかけ、ふと息を継いだ、その時だった。

耳に当てていたスマホから、小さく、しかしはっきりとした人間の声が聞こえたのだ。

『……あの、馬楼さん?』

心臓が、喉の奥から飛び出るかと思った。

画面を見る。通話中だった。

ロックを解除し忘れていた画面が、ポケットの中で誤作動を起こし、よりにもよって、履歴の一番上にあった相手に発信していたのだ。

相手は、糠森ひな。

通話時間は、すでに三分を経過していた。つまり、ひなは、馬楼がいきなり電話をかけてきて、三分間ひたすら「どっちが大事なんだ」「穀潰し」「唐変木」と叫び続けるのを、無言で聞いていたことになる。

『もしもし? 馬楼さん? あの、大丈夫ですか? 何か、私、しましたっけ……?』

スピーカーから聞こえるひなの声は、怯えと、困惑と、そして本気の心配を含んでいた。

馬楼は、路上練習のメソッドを即座に破棄し、スマホに向かって「ごめん! 誤爆! 今のは落語! フィクション! 俺は正気だ!」と叫んで、通話を切った。

その後、ひなから送られてきた『疲れが溜まっているなら、いい病院を紹介します』というLINEの通知を、馬楼はまだ放ったらかしだ。

「……言えるかよ、こんなこと」

馬楼は、冷め切った牛丼の上に、さらに紅ショウガを山のように盛り付けた。

赤くて辛いそれを口いっぱいに頬張り、記憶の味を誤魔化そうとする。

しかし、鼻に抜ける強烈な酸味は、あの時の冷や汗の感覚を、より鮮明に呼び覚ますだけだった。

「ごちそうさん」

馬楼は逃げるように席を立った。

今夜は、骨伝導イヤホンでささやき声の練習をしよう。それなら、誰にも迷惑はかけない。

……また高座で声が出なくなるとしても、ひなに心配されて病院を紹介されるよりは、幾分かマシなはずだ。たぶん。

作・千早亭小倉

●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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