お題008. 練習の彼方と微炭酸の幻影

喫茶「小古庵」。午後の店内は、客がまばらで、柱時計の針が進む音以外、空気が止まっていた。テーブルの上には、氷の溶けかけたアイスティーと、緑色のメロンソーダ。ひなは文庫本に目を落とし、馬楼はストローをくわえて天井を仰いでいる。

「でね、俺は思ったわけよ。酔っ払いの演技ってのは、酔ってちゃできねぇと」

馬楼が、ストローをくわえたまま、器用に唇の端だけで喋る。赤いオーバーオールが、落ち着いた店内で警告色のように浮いていた。

ひなは、読みかけの文庫本に視線を落としたまま、アイスティーの結露を指先でなぞった。

「……はいはい。それで?」

「シラフで泥酔する。これこそが芸の極意だとね。だから俺は、昨日の真昼間、一滴も飲まずに『千鳥足』の稽古をしてたんだ。商店街の真ん中で」

ひなの手が止まる。嫌な予感しかしない。

「……具体的には?」

「右足を出して、左足を絡める。電柱に肩をぶつけて、謝る。マンホールにつまずいて、空を見上げる。これを完璧なリズムで繰り返しながら、ココアン銀座を縦断した」

馬楼は得意げに鼻を鳴らす。

「そしたらさ、交番から若いのがふたり飛び出してきてね。『こんにちは』『ちょっといいですか』って両脇抱えられたんだよ。俺は言ったね。『離せ、俺は芸の求道者だ! 血中アルコール濃度はゼロだ!』って」

「で、どうなったの」

「検査されたよ。息を吹きかけろって。結果は、見事なゼロ・パーセント! 俺の運気並みだ」

「……そ、そう」

「そいつが真顔で言ったね。『シラフでこれは、もっとタチが悪いです。ご家族呼びますか?』って。……屈辱だね。俺の演技がリアルすぎた弊害だ」

馬楼は悔しそうにメロンソーダを吸い込み、ズズズと下品な音をさせた。ひなは、深く、深くため息をついた。

「……馬楼さん。それ、演技が上手かったんじゃなくて、単に不審者としての完成度が高かっただけだと思います」

「手厳しいねえ、お雛様は」

その時、店内の壁掛けテレビから、アナウンサーの「一堂注目!」っぽい声が流れてきた。

『――昨夜の欧州リーグ、奇跡の瞬間です! 後半ロスタイム、この位置からのオーバーヘッド!』

馬楼とひなは、同時に顔を上げた。

画面の中、スタジアムの熱狂が、音量を絞られたスピーカーから漏れ出してくる。スローモーションのリプレイ映像。重力を無視したかのような跳躍から放たれたボールが、美しい弧を描いてゴールネットを揺らした。

『まさに神業! 天才の閃きが、チームを救いました!』

アナウンサーが興奮気味にまくし立てる。

ひなは、グラスの中の氷が溶けていくのをぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……天才って、どこの世界にでもいるのね」

その言葉には、羨望と、諦めと、ほんの少しの棘が含まれていた。

馬楼が、ストローから口を離し、真面目腐った顔で画面を指さした。

「わかっちゃいないね、ひな」

「何が?」

「あれは『閃き』なんかじゃねえよ。あの足の角度、身体のひねり。あれは、日頃の血の滲むような練習が、無意識に出ただけだ。一瞬の奇跡に見えるものの裏には、何万回もの泥臭い反復があるんだよ。……俺の千鳥足と同じでな」

最後の一言は余計だったが、馬楼の眼差しは、珍しく真剣だった。ひなは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

(……そうかも。私たちも、そうやって積み上げてる……)

ひなは、鍵盤を叩き続けた右手の先を、相棒の左手で包み込んだ。

その時だった。

「でも、馬楼さん」

カウンターの奥から、お盆を持った志乃ママが、音もなく現れた。

「え?」

志乃は、穏やかな微笑みを二人に向けて、こう言った。

「地球の裏側の、誰も見てない原っぱでね。小さな子どもが、裸足で、いまのシュートよりもっと、もっとすごいシュートを決めてるかもしれないわよ」

「……」

「……」

時が止まった。

馬楼が、口を半開きにする。

「……もっと、もっと?」

「そう。カメラもなくて、観客もいなくて、記録にも残らない。でも、世界一美しいシュート」

志乃は詩を紡ぐようにそう言うと、二人の前のコップに水を継ぎ足すと、奥へと消えていった。

残されたのは、圧倒的な「虚無」だった。馬楼の「血の滲むような練習論」が、音を立てて崩れ去っていく。

――誰も見ていない原っぱの、名もなき天才。それに比べれば、俺たちの練習なんて、千鳥足の稽古なんて、メロンソーダの上のサクランボほどの意味もないのではないか。

馬楼が、言葉を失って固まっている。練習の無駄さ、努力の儚さを、これ以上ないほど詩的に、残酷に突きつけられた顔だ。ひなは、そんな馬楼の横顔を見て、小さく息を吸い込んだ。そして、一言だけ言った。

「……それでも」

短く、低い声だった。

馬楼が、ハッとしてひなを見る。ひなの瞳には、迷いではない、静かな光が宿っていた。

誰が見ていなくても。世界一でなくても。

馬楼も、小さく頷いた。

「……そ、そうだよな。でもだよ。それでも、やるしかねえんだよな」

カウンターの奥で、志乃がにこにこと笑っている気配がした。

「……行くぞ」

馬楼が、急に何かに追われるように席を立った。

「え、もう?」

「ここにいたら、毒気を抜かれちまう。志乃ママの哲学は、俺には劇薬だ」

馬楼は伝票をひったくり、逃げるように会計を済ませた。

店の外に出ると、生温かい風が吹いていた。路地裏の猫が、欠伸をして通り過ぎていく。ひなは、日差しの眩しさに目を細めながら、先を歩く馬楼の姿を目で追った。

「……そうよね、馬楼さん」

「ん?」

「誰が見てなくても、世界一じゃなくても。それでも、私たちは」

ひなは、言葉に力を込めた。

弾くしかない。語るしかない。

練習という、果てしない徒労を繰り返して、その先にある何かを信じて。美しい決意の言葉が、ひなの口から紡がれようとした、その瞬間。

馬楼が、ニカッと笑って言った。

「そう、俺達にはビールがある!」

ひなの足が止まった。

「……は?」

馬楼は、ひなの反応などお構いなしに、角の酒屋を指さした。

「練習して、恥かいて、落ち込んでも、そのあとの一杯さえあれば、全部チャラだ! な! 世界一のシュートより、目の前のスーパードライだろ!」

ひなは、呆気にとられた顔で、楽しそうに小銭を探す赤い背中を見つめた。

感動的な「それでも」の着地が、そこ?

練習への決意じゃないの?

(……ほんと、この人は)

ひなは、ため息をつこうとして、やめた。

代わりに、フッと小さく笑った。

「……そうね。乾杯くらい、付き合ってあげる」

「おっ、話が分かるねえ! じゃあ、ひなさんはお茶な」

「……一本くらい、飲むわよ」

「えっ、マジで? ……あー、じゃあ、介抱の練習もしとくか」

「うるさい」

酒屋の自動ドアが開く。

「よぉ、いらっしゃい」

店主の声は、世界一のゴールを揺らす音よりも、今の二人には、ずっと大切に響いた。

作・千早亭小倉

●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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