お題009. 十三秒のユニゾン

午後三時きっかり。ココアン区の空気が、昼下がりの倦怠でカスタードクリームのように重たくなる時間帯。街のどこからか、ふっと響いてくる十三秒間のハミング。

低く、長く、電子音のようでもあり、深海生物の寝息のようでもある。

コンクールでの古傷や、師匠・米山共子の禅問答のようなダメ出しで、常に強張っているひなの肩甲骨周りの筋肉が、その音を聞くと、湯船に浸かった時のようにじわりと弛緩する。それは彼女にとって、狂った世界を正しいピッチに戻す、秘密の音叉だった。

(今日も、合った)

ひなは満足げに息を吐く。

だが、世界はひなほど繊細な耳を持ってはいなかった。

スマホの画面をスクロールするひなの指が、ある動画の前で止まる。

『#ココアン村の鬱チャイム #呪いの周波数 #聞いてるとSAN値下がる』

動画の中では、大学生くらいの若者たちが、例のハミングに合わせて白目を剥き、ゾンビのような動きで痙攣してみせていた。コメント欄は、ひなが最も軽蔑する「思考停止した共感」の博覧会だった。

『わかるー! なんか胃が重くなる音w』

『うちの猫、この音で吐きました』

『税金の無駄。役所の陰謀乙』

ひなは、スマホの画面を親指で強く押しすぎて、液晶に虹色の滲みを作った。 誰も、その音の「倍音」の美しさに耳を傾けようとはしない。ただ、「不快」というラベルを貼られた箱に石を投げ入れ、その音を楽しんでいるだけだ。その、粗雑でガサガサとした感性が、ひなの聴覚をヤスリのように逆撫でする。

数日後、ひなは「音源」を特定した。

それは執念というより、調律師が狂った鍵盤を放置できない職業病のようなものだった。場所は、FMココアンが入居する雑居ビルの裏手。外壁に、ヤモリのようにへばりついた古ぼけたスピーカー。

午後三時。

ひなは、物陰からその光景を目撃した。

スピーカーの真下のベンチに、一人の男が座っていた。くたびれた作業着に、無精ひげ。FMココアンのエンジニア、佐野健だ。以前、ラジオの収録現場で見かけたことがある。常に眉間に深い皺を寄せ、機材のノイズに舌打ちしている神経質そうな男。

だが、今。

あのハミング――「ヴォォォォン」という、低く唸るような響き――を全身に浴びる佐野の顔は、憑き物が落ちた仏像のように穏やかだった。まるで、世界のすべてを許したような、放心に近い安らぎ。

ひなは直感した。あの音は、街に向けられたBGMではない。たった一人の、この疲れ果てた男が、深海のような孤独の中で息継ぎをするための、酸素ボンベなのだ。

しかし、無粋な現実は、その酸素チューブを容赦なく踏みにじりに来た。

『謎の怪音・撤廃に関する区民公聴会』

区役所の掲示板でその文字を見た瞬間、ひなの胃のあたりが冷たく縮こまった。

公聴会の当日。区民会館の小ホールは、正義という名の凶器を手にした善意の市民たちで埋め尽くされていた。壇上では、「ココアン区の静寂を守る会」会長、ステキさんこと矢尾玲子がマイクのハウリングも気にせず叫んでいる。

「あの陰気な音のせいで、ステキさんの家のインコが餌を食べなくなりましたのよ! これは明らかに環境ハラスメントです!」

続いて、動画を投稿した若者が、ヘラヘラと笑いながらマイクを握る。

「いやー、マジでテンション下がるっていうかー、あ、これ俺のバズった動画っすけどー」  

会場のあちこちから、「そうだ!」「消せ!」という野次が飛ぶ。それは、調律の狂ったピアノを一斉に乱打したような、醜悪な不協和音だった。

会場の隅で、佐野がパイプ椅子に小さくなって座っていた。その顔色は、打ち捨てられた灰色の機材のようだった。彼は何も言わない。言えるはずがない。自分のささやかな救済が、社会悪として断罪されているのだから。

ひなの指先が、氷のように冷たくなっていく。過呼吸になりそうだ。この騒音。この、耳を汚す言葉の羅列。立ち上がって反論する?

『あの音は、F長調の倍音成分が豊富で、副交感神経に作用するんです』と?

そんな理屈が、この興奮した人々に通じるわけがない。

限界だった。ひなの「我慢の弦」が、ブツリと音を立てて切れた。

ひなは席を立つと、一直線に壇上へと歩き出した。

「な、なんですか、あなた! この時間、この場所はステキさんの……」

矢尾玲子の金切り声を無視して、ひなは舞台袖に置かれていたアップライトピアノの蓋を開けた。調律されている保証はない。でも、関係ない。ひなは、乱暴に椅子を引き寄せると、鍵盤に指を叩きつけた。

ジャァァァァァァァン!

会場の空気を引き裂くような、強烈な不協和音。ざわめきが、一瞬で凍りつく。ひなは、その静寂の隙間に一滴の水を落とすように、次の音を置いた。

ポーン……。

それは、あのハミングと同じ、低く、長く、どこまでも深く沈んでいく音だった。ひなの左手が、深海の潮流のようなアルペジオを奏でる。ひなの右手は、その上を漂う泡沫のようなメロディを紡ぐ。言葉はいらない。論理も、正義もいらない。ただ、疲れた魂が、泥のように眠るための音楽。傷ついた男が、たった十三秒だけ許される、世界との和解。

ひなの演奏は、壇上に渦巻いていた薄っぺらい熱気を、冷たい水で洗い流していった。インコがどうとか、動画の再生数がどうとか、そんな些末なノイズが、圧倒的な「静謐」の前に無力化されていく。

十三秒。

いや、もう少し長かったかもしれない。ひなが最後の和音の余韻を手で包み込むようにして離すと、ホールは、水を打ったような静寂に包まれていた。誰も、口を開かない。開けば、この心地よい沈黙が壊れてしまうことを、本能的に悟ったかのように。

パイプ椅子の上で縮こまっていた佐野健のからだが、緊張がほぐれてひとまわり大きくなったようだった。

ひなは、鍵盤蓋をそっと閉じると、誰とも目を合わせずに壇上を降りた。出口に向かうひなの背中に、たった一つ、拍手の音が聞こえた。振り返らなかったが、それが誰のものか、ひなには分かっていた。

(……ふふ、かっこよすぎない? 私)

会場を出て、廊下を歩きながら、ひなは少しだけ自惚れた。世界を救ったわけではない。ただ、たった一人のために、世界を黙らせたのだ。その達成感に酔いしれながら、ひなは出口の扉を開け――。

そこで、ひなの世界が割れた。

「――んがぁぁぁぁぁ、ごぉぉぉぉぉぉ……」

拍手の音が、汚らしい濁音に変換される。ひなは弾かれたように目を開けた。ホールも、スタンディングオベーションもそこには無かった。あるのは、西日が射すいつもの公園と、硬いベンチの感触。

え?

隣に転がる赤い物体。

「ぶるるっ、むにゃ」

口を半開きにし、喉の奥の柔らかい肉を震わせながら、その男は爆睡していた。

――酔酔亭馬楼。

「最低」

ひなは現実に舌打ちをする。感動的な「孤独なエンジニアの救済」談は、この締まりのない落語家の「昼寝」だったのだ。ひなは、その鼻に制裁を加えようと、指を伸ばした。

だが、その指が空中で凍りつく。

「嘘でしょ」

ひなの耳が、職業病的な速度で「音の解析」を始めていた。馬楼の喉から漏れる「んごぉぉぉ」というイビキ。その基本周波数は、驚くほど安定したヘ音記号の下、コントラファ。しかも、だらしなく緩んだ気道が絶妙な共鳴胴サウンドボードとなり、通常なら不快なノイズになるはずの振動を、奇跡的なバランスで「癒やしの倍音」へと昇華させている。

(私がスタインウェイでも出せなかった「ゆらぎ」が、どうしてこの肉塊から出ているの?)

脳内で追い求める「理想のハミング」と、目の前の「現実のイビキ」。その波形が、完全に一致する。視覚情報は「汚い」。しかし聴覚情報は「極上」。二つの矛盾する信号が脳内でショートし、ひなは軽い目眩を覚えた。

認めたくない。だが、耳が事実を突きつけてくる。

この男の、無防備で、無責任で、弛緩しきった生存本能そのものが、ひなの神経を逆撫ですると同時に、深く鎮めているのだと。

十三秒が過ぎ、馬楼が「ぷすー」と息を継ぐ。世界から音が消え、また退屈な日常のノイズが戻ってくる。

「悔しいけど」

ひなの指先は、馬楼の鼻を撫ぜるようにして、馬楼の肩に着地した。掌に伝わる微かな振動すら、今は心地よい。

「すてきな、楽器」

ひなは誰にも聞こえない声で呟くと、ぬるくなったペットボトルを手に立ち上がった。その時、馬楼がビクッと体を震わせ、飛び起きた。眼鏡がずれている。

「っ! なんだ!? 出番か!? あ、ひな?」

「おはよう。素晴らしい演奏だったわよ」

「へ? 演奏?」

馬楼は寝ぼけ眼で辺りを見回し、涎を袖で拭った。

「なんだよ、俺が真打になって、座布団の海を泳ぐ夢を見てたのに」

「それは奇遇ね。私は、世界一の騒音公害を、この手で手なずける夢を見ていたわ」

ひなは、まだコントラFの余韻が残る耳を澄ませながら、雑踏の方へと歩き出す。背後で、訳が分からないまま慌てて追いかけてくる足音が、不規則なリズムで響いた。

作・千早亭小倉

●二つ目の馬楼と代弾きのひなの物語(Kindle版)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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