3丁目駅、鉄美鈴の夜

二十三時十一分。赤色灯が二つ、暗がりの奥へと吸い込まれていった。M鉄道からここあん鉄道へ乗り入れる、3丁目駅経由タウン駅行き最終列車。

ここあん鉄道職員の鉄美鈴はホームの端で、背筋を真っすぐに伸ばして立っていた。右手の指をピンと伸ばし、誰もいない線路の先を指す。

「送り出し、ヨシ」

声が冷えた空気に弾け、コンクリートの壁に跳ね返った。制服の袖口から入り込む夜風が、二の腕を撫でる。お腹が鳴りそうだった。駅前のコンビニにある、衣の分厚いメンチカツのことを考えたら、本当にお腹が鳴った。ただし、この一連の動作は、一つでも抜かすわけにはいかない。職員マニュアルは、また、美鈴の生きる指針でもあった。ルーティンにひとつでも漏れがあれば、明日には線路が飴細工のように曲がってしまうのではないかという、妙な怖さがまとわりついているのだ。

事務室で着替えを済ませ、重い鉄の扉を閉めた。職員用の出入り口は、駅の裏手にある細い路地につながっている。一歩外へ出ると、駅の喧騒とは違う、湿った街の匂いが鼻を突いた。

――椎名町3丁目。

駅前広場の向こう、蔦が絡まった建物が見える。元映画館の「まひる座」だ。閉館中のはずなのに、二階の窓から薄いオレンジ色の光が漏れていた。中から、誰かの叫び声と、ドタバタと床を強く踏み鳴らす音が聞こえてくる。たぶん、劇団「かもかも」の連中だろう。彼らは時計の針なんて持っていないかのように、いつまでも勝手な時間を生きている。

「……二十三時三十四分。もう寝る時間ですよ、普通は」

美鈴は広場の中心に立つ時計台の時計の針に目をやり、独り言をこぼした。明日、あの光の中にいる人たちの何人かが、始発の時刻に数秒遅れで駅に駆け込んでくるはずだ。いつもそうだ。警笛の幻聴が、空腹の胃袋を刺激した。

風が強まり、美鈴は身をすくめた。駅の外灯を確認する「点検」のふりの流れで、冷え切った右手の指先を、上着の下、シャツの隙間からお腹のあたりへそっと忍ばせてみた。

「ひゃっ」

指先が氷のように冷たい。薄いお腹の皮に、硬い何かが突き刺さるような感触。そのあまりの冷たさに、胃のあたりが、キュッと内側に縮こまるのがわかった。自分の体温さえ遠く感じる夜の終わり。美鈴はそのまま、指先でお腹の平らな感触をもう一度だけ確かめると、足早にコンビニへと歩き出した。メンチカツに向かって。

作・千早亭小倉

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