お題010. ひなそば

深夜二時。ココアン区のコンビニは、深海に沈んだ潜水艦のようだった。

酔酔亭馬楼は、完熟トマト色のオーバーオールという、およそ深夜の労働には不釣り合いな格好で、おにぎり棚の前にしゃがみこんでいた。

「……ひ、ふ、み、よ……」

低い声が、冷蔵棚のモーター音に混じる。

「……いつ、む、なな、や。……お、おやじ。今、何時なんどきだい」

落語の定番、『時そば』の稽古だ。勘定をごまかすために、蕎麦屋の親父に時間を問いかける重要な場面。だが、馬楼の声には、致命的な「淀み」があった。

「……ここの、一秒がなあ……」

彼は指先で、ツナマヨネーズのおにぎりの角を小突いた。ビニール包装が、カサリと不機嫌な音を立てる。

自動ドアが、乾いた音を立てて開いた。

入ってきたのは、糠森ひなだった。深夜の練習帰りだろう。背中には、重たい楽譜の詰まったリュックを背負い、目は寝不足で少し吊り上がっている。

ひなは、まっすぐにおにぎり棚へ歩み寄り、馬楼の背後で立ち止まった。

「……の後、〇・五秒遅いです」

馬楼は、飛び上がらんばかりに驚いて、おにぎりを棚の下に落としそうになった。

「うわっ、お、おひな様。驚かさないでくれよ」

「驚いてるのは、私の耳です。そんなメチャクチャなテンポで銭を数えられたら、裏で伴奏している私の脳内オーケストラが総崩れになります」

ひなは、冷たい指先でレジカウンターをトントンと叩いた。正確な、四分音符の刻みだ。

「いいですか、馬楼さん。落語も音楽も、休符こそが雄弁なんです。あなたの『よ』と『いつ』の間には、余計な自意識というノイズが混じっている。……貸しなさい、その小銭」

「いや、いま、売り物のおにぎりを並べてる最中で……」

「いいから」

ひなは、馬楼の手から強引に、空想の銭をもぎ取った。そして、レジカウンターを鍵盤に見立てて、細い指を躍らせた。

「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や」

それは、まるでモーツァルトのソナタのように軽やかで、かつ、一分一厘の狂いもない完璧なテンポだった。

「……あ、ここのつだ。おやじ、今、何時だい?」

ひなが、馬楼の台詞を横取りする。その声音は、江戸の風など微塵も感じさせないが、言葉の「重さ」だけが等間隔に並んでいた。

馬楼は、呆気に取られてその指先を見つめた。

「……すげえな。おひな様、今の、メトロノームみたいだった」

「褒め言葉として受け取っておきます。代弾だいびきをなめないでくださいね」

ひなは、ふんと鼻を鳴らすと、棚から一番高い「炙り明太子」のおにぎりを手に取った。

「今のレッスン料。これで手を打ちます」

「えっ、レッスン!? で、俺の自腹!?」

「当たり前でしょう。芸術の指導は高いんですよ」

馬楼は、トマト色の肩紐を揺らしながら、泣く泣くレジに回った。 バーコードを読み取る「ピッ」という電子音。

「……ひ、ふ、み、よ……」

馬楼は、レジを打ちながら、小声でひなのテンポをなぞってみた。

「……いつ、む、なな、や」

「あ、今のは、少しだけ良かったです」

ひなは、おにぎりの袋を受け取りながら、ほんの少しだけ、口角を上げた。

「でも、やっぱり噛みそうでしたけど」

深夜二時十五分。 店を出ていくひなの背中を見送りながら、馬楼は再びおにぎり棚の前にしゃがみこんだ。 静まり返った店内に、今度は少しだけ軽やかな、銭を数える音が響き始める。

それは、ほんの十三秒間だけ、世界と調律が合ったような、奇妙に心地よいリズムだった。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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