お題011. ノーカン

三月の第四金曜日、午後二時四分。商店街を通り抜ける風は、まだ湿った重さを含んでいる。

糠森ひなは、重さ一・二キログラムあるラフマニノフの楽譜集を胸に抱え、早足で角を曲がった。 指先の感覚を鈍らせないために、薄手のシルクの手袋をはめている。 彼女の頭の中では、次のリハーサルで弾くべき四分音符が、正確なメトロノームの刻みとともに反復されていた。

その直後、視界の端から「熟れすぎたトマト」のような赤色が飛び込んできた。

「うおっ!?」

酔酔亭馬楼である。深夜バイト明けの彼は、トマト色のオーバーオールの肩紐を片方外したまま、あくびを噛み殺そうとして前が見えていなかった。二人の距離がゼロになるまで、コンマ三秒。

激突。

ひなの抱えていた楽譜が、アスファルトの上で扇のように広がった。重心がつんのめり、彼女の体は馬楼の胸板へと吸い込まれるように倒れ込む。馬楼は咄嗟に彼女の肩を掴もうとしたが、その指先は空を切り、二人の顔が不自然な角度で密着した。

柔らかい感触が、ひなの唇をかすめる。

馬楼の口元からは、安物のお茶と、寝不足の胃袋が発するわずかな苦い匂いがした。ひなは目を見開き、一瞬だけ呼吸が止まる。 鍵盤を叩く時の集中力とは全く別の、熱い何かが脳の裏側を逆なでした。

「……っ!」

ひなは弾かれたように身を引くと、落ちた楽譜も拾わずに、顔を耳まで真っ赤に染めて叫んだ。

「い、いまのは、ノーカンですから! 物理的な接触の事故ですから!」

言うが早いか、彼女は若武者のような足取りで、商店街の雑踏の中へと走り去っていった。翻る黒髪が、馬楼の鼻先をかすめていく。

後に残されたのは、尻もちをついた馬楼と、その光景を三メートル後ろで眺めていた氷上静だけだった。静は、手にした哲学書の栞を丁寧に挟み直すと、ゆっくりと馬楼に歩み寄った。

「馬鹿野郎さんだったかしら、あなた、大丈夫?」

静の声は、図書館の奥の静寂のように落ち着いている。

「あ、え、ああ、ええ? びっくりしたぁ。おひな様、あんなに足速かったんだな」

馬楼は、自分の唇を手の甲で無意識に拭いながら、呆然と答えた。彼の頭の中では、今起きた「事故」が、落語の『崇徳院』に出てくるような運命の出来事なのか、それとも単なるドジな失敗談なのか、整理がつかずにいた。

静は眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、落ちた楽譜を拾い上げながら、つぶやいた。

「初めてね」

静の言わんとしたのは、「こんな出会い頭のキスなんて、見たのは初めて」という意味だ。だが、その言葉によって、馬楼の脳内にある「糠森ひなログ」は、誤った方向へ高速回転を始めた。

「初めて……? いやいやいや、そんなわけないじゃないですか」

馬楼は、自分の顎をさすりながら、まるで落語のネタの年表を繰るような手つきで空を仰いだ。

「ええと、正確に申し上げますと……。一回目は三ヶ月前の大雪の夜、あちこちって居酒屋の店先で。二回目は先月の駅のホーム、酔った彼女を支えた時。三回目は先週の木曜日、俺のバイト先のバックヤードで、彼女が棚に頭をぶつけそうになったのを……」

「馬鹿野郎さん」

「四回目は、三日前の雨宿りの時です。これはちょっと、カウントしていいか微妙な『かすり』具合でしたが。で、今日のが五回目。……あ、でも彼女が『ノーカン』って言ったってことは、公式記録としては四回に戻るんですかね?」

馬楼は真面目な顔をして、指を折って数え続けている。

「……そこまで聞いてないわよ」

静は、呆れを通り越して、少しだけ背筋に寒いものを感じた。 彼は、ひなとの「接触」を、まるで寄席の出番の回数か、あるいは賞味期限でもチェックするかのように、日付とシチュエーション込みで完璧に記憶していた。

「ひなさんが『ノーカン』って言ったのは、単に恥ずかしかったからでしょう。それなのに、あなたときたら……」

「だって、記録は正確じゃないと。おひな様にとっては『不可抗力』でも、俺の唇のセンサーによれば、今日のが一番、彼女の方から圧力がかかってましたよ。ええと、〇・三ニュートンくらいは……」

「単位!」

静は短く切り捨てると、ひなが消えていった出口を見つめた。

「今さら一回分を消したところで、何が変わるっていうのかしら。まあ、女心といえば可愛らしいけれど、生際が悪いだけのようにも」

静は勝手にひなの心内を分析し、馬楼のほうは、まだ「五回目か、四回目か」の判定について、トマト色のオーバーオールのポケットに手を突っ込み、ぶつぶつと独り言を漏らしている。

「あんず飴の味」

馬楼の呟きに、静は再び寒気を感じた。ここあんの商店街の春は、理屈と記録では割り切れない、ひどく不器用な熱を帯び始めていた。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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