これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
閉館を告げるチャイムの音がすっと消えていく。昼間の賑やかさが嘘だったかのように、図書館はようやく静かになった。聞こえるのは、エアコンの低い音と、壁時計の針が進む乾いた音だけ。きれいに並んだ本棚の間は、しんと静まり返っている。
返却された本をカートに乗せ、あるべき場所へと帰す。乱れた分類を正し、無秩序を秩序へと。私はそのためにここにいる。
児童書コーナーの隅で、指先が止まった。まっすぐな列から、ずれている本を見つけたからだ。絵本の棚。一冊だけが、定規で引かれた線から、わずか五ミリほど、こちら側にはみ出している。よくあること。誰かが適当に戻していったのだろう。それを元の位置に戻そうとして、私は指を伸ばした。
触れる、寸前。
指先が止まる。その本は、表紙と中身の間に、ほんの少し隙間があった。たまたま閉まらなかったのではなくて、誰かがわざとそうしたみたいだ。せっかくきれいに整えたものを。なんだか、意地悪をされたような嫌な気分になった。
でも、なぜ?
そう思うよりも早く、耳の奥で、忘れていた声が聞こえた。ずっと昔、叔母が働いていた編集プロダクションのアルバイト学生、陽の声。
『親父、子どものころ、本を絶対に閉じなかったらしいんです。中の登場人物が息苦しくなるから、って』
馬鹿げている。非合理、感傷的、妄想。本はインクと紙で構成された物質だ。分類番号で管理されるべき情報媒体。それ以上でも、それ以下でもない。私が災害の後に学んだ、世界の真実。なのに、陽の言葉は続く。
『親父ったら、「僕が寝ている間に、みんな出かけるかもしれないだろ? 本の世界とこっちの世界を行き来できるように、少しだけ開けておくんだ」だって。おかしいよね』
息継ぎの隙間。秘密の通路。
その詩的な響きが、硬く閉ざした私の心の扉をこじ開けようとする。
(昔の私なら、好きだったかもしれない話……)
脳裏をよぎる感傷を、即座に打ち消す。目の前の絵本。これをカウンターに置いた子どもの顔を想像してしまう。物語が終わってしまうのを寂しがる、小さな指先。この五ミリの隙間が、無秩序なエラーではなく、誰かの優しさや想像力のあとなのだとしたら? 私の指は、行く先を失って宙を彷徨った。
「――何をしている」
後ろから低い声がして、心臓が止まるかと思った。高島副館長。私以上に秩序と規律を信奉する、この図書館の「絶対」であり「法則」。いつも通りの隙のない格好と、冷たい雰囲気。彼が近くにいるだけで、あたりが急に寒くなった気がした。
「あるべき場所に収まっていない。規律の欠如だ」
彼の視線は、私がためらっていた一点――秩序を乱す絵本――に固定されていた。彼の指が伸びて来て、躊躇なく、その「エラー」を消し去ろうとする。
「あっ!」
思わず、甲高い声が出た。副館長の指が止まる。彼の視線が、私に移る。「いま、規律に異を唱えた?」「この図書館の、いや、私の世界の法則に?」そんな心の声が聞こえてくるようだ。この先に待っている一時間コースの説教が脳裏を駆け巡る。それでも、引けなかった。この通路が塞がれたら、物語は永遠に窒息する。
「……その本は」私の喉が、か細い音を絞り出す。「息をしているんです」
何を言っている、私。おかしい。社会人として、司書として、非論理的な発言だ。
「息継ぎ、です。本の中の人が、苦しくないように……」
高島副館長の顔から、表情というものが抜け落ちた。値踏みするような視線が、私の顔と絵本とを往復する。時計の秒針の音。そして、彼の口からこぼれたのは、私の予想を裏切る言葉だった。
「……そうか」静かな呼気にも似た呟き。「……ならば、仕方ない」
彼はそれだけ告げると、影のようにその場を離れていった。あの高島副館長が、なぜ? 理解が追いつかない。だが、結果として、あの五ミリの隙間は守られた。絶対的な秩序に、私の非論理的な言葉が、勝った……?
全ての業務を終え、誰もいなくなったフロアで、私はもう一度、あの場所を訪れた。絵本は、あの時と寸分違わぬ角度で、世界に開かれていた。その小さな隙間を見つめていると、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の一節が不意に浮かんだ。バスチアンが本の世界「ファンタージエン」に吸い込まれていったように。あの隙間は、物語の世界とこの現実とを繋ぐ、秘密の通路なのかもしれない。この絵本の主人公は、静まり返った図書館の床にインクの小さな足跡を残しながら、冒険を始めるのだろうか。私が恐れてやまない「混沌」とは違う、詩的な無秩序。
災害が私から奪ったのは、物理的なものだけではなかった。こういう、無駄で、非合理的で、けれどどうしようもなく愛おしいものを信じる心だったのかもしれない。
高島副館長に逆らってしまったことへの恐怖と、それでも通路を守れたことへの、小さな、秘密の満足感。今夜は、閉架書庫に隠したチョコレートの袋を開けずに済みそうだ。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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