これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
ロマコメ号のエンジンを止めると、ボストー区の復興住宅地の午後は、しん、と静まり返っていた。空はどこまでも高く、雲ひとつない完璧な青。こういう日は、何もかもが分類表通りに進むような錯覚を覚える。
私は手順通りにオーニングを広げ、折り畳みの椅子とテーブルを並べ、「ここあん・カフェ」の小さな看板を立てる。図書館車内の書架は、日本十進分類法に従って、一分の乱れもなく整えられている。これが私の座標軸。
「あら、ちなっちゃん。待ってたよ」
聞き慣れたかすれ声に振り返ると、杖をついたおばあちゃんが、ゆっくりとこちらへ歩いてくるところだった。その笑顔に、私の心の書棚がほんの少し、音を立てて揺れる。
本の貸し借りが目的ではないことを、私はもう知っている。彼女はいつも、カフェの椅子に腰を下ろし、私が淹れたインスタントコーヒーを飲みながら、ぽつり、ぽつりと話を始める。
「この前ね、雨が降って一日中暗かったでしょう。まだ夕方の四時なのに、もう夜だと思って寝ちゃったの。そしたら夜中に目が覚めて、それから朝まで眠れなくて。一日家にいると、昼と夜の区別もつかなくなってくるねぇ。外に出ないと、人間、おかしくなっちゃう」
昼と夜の区別がつかなくなる。その言葉が、私の秩序だった世界に、ひと滴のインクを垂らす。時間の感覚は、人間の基本となる「分類項目」だ。
――スタニスワフ・レムの『ソラリス』。
思考の海に覆われた惑星ソラリスが、主人公の記憶から作り出した「客人」を送り込み、現実と幻の境界を溶かしていく。
おばあちゃんにとって、その静かすぎる家が、自身の記憶や不安を映し出すソラリスの海になってしまっているのかもしれない。
「あのこと」の時もそうだった。閉ざされた避難所で、窓の外の景色が変わらないまま何日も過ぎていくうちに、自分の身体の感覚さえも曖昧になっていった。だから私は、目の前の出来事すべてに、きっちりとした背表紙をつけて番号順に並べないと、息が苦しくなってしまう。そうしないと、物語のページがバラバラに散って、二度と元に戻らないような気がして。以前なら、ページの順番がめちゃくちゃだって、それも新しいお話だねって、きっと笑い飛ばせたはずなのに。
「村役場に行くバスもね、夕方の便が来ないことがあるんだよ。本当に困っちゃう」
またひとつ、予測不能な混沌。時刻表という約束事が、いとも簡単に破られる世界。それに比べて、このロマコメ号は、毎週決まった曜日の、決まった時間、必ずここにやってくる。それが、この場所で暮らす人たちにとって、どれほどの意味を持つのか。マニュアルには「情報ハブ」「サードプレイス」としての役割が記されているけれど 、そんな分類された言葉では掬いきれない何かが、この車と人々の間には流れている。そう思う。
結局、その日、おばあちゃんは本を借りていかなかった。私たちは一時間近く、バスの話や、最近スーパーの移動販売で買ったという煮物の話をしただけだった。業務日報には、「利用者との対話」とでも書けばいいのだろうか。でも、そんな簡単な言葉で分類してしまったら、おばあちゃんの瞳の奥にあった深い哀しみと、それでも私を見て笑ってくれた一瞬の温かさが、乾いた文字の隙間からこぼれ落ちてしまう。
巡回を終えて、図書館の地下駐車場にロマコメ号を停める。閉架書庫のひんやりとした空気が、火照った思考を冷ましてくれる。いつもの定位置。完璧な静寂。
今日の出来事を、私はまだ、頭の中の書棚のどこにも収められずにいる。分類不能。処理未了。でも、それでいいのかもしれない、と今は思う。理解できないソラリスの海を前にした主人公のように。ただ、そこにある混沌を、そのまま受け止めてみる。それはとても怖いことだけれど、ほんの少しだけ、息がしやすい気もした。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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