フランスパン大好き

【登場人物】
矢尾 玲子
:きさらぎタウンに暮らす、自称「ステキさん」。世界のすべては自分を美しく見せるための舞台装置である。
リリカ:玲子の娘。ここあん高校の「冷たい最強」。母親の過剰な自己愛には呆れているが、観察対象としては興味を持っている。

【場面設定】
きさらぎタウンにある矢尾家のリビング。モデルルームのように生活感がない。リリカはソファで、シニカルな厭世家エミール・シオランの『生誕の災厄』を読んでいる。そこへ、玲子が長い紙袋を抱え、凱旋パレードのような足取りで帰宅する。

(玲子、リビングの中央でポーズを決めるように立ち止まる)

ステキさん
ステキさん

ただいま、プリンちゃん。見て、このフォルム。今日のステキさん、パリの風を纏って帰還したわ。

リリカ
リリカ

(本から目を離さず)おかえり。……あと、私の名前はリリカ。プリンじゃないし、ここあん村にパリの風は吹いてない。あるのは湿気と、パン屋の排気ダクトの匂いだけ。

ステキさん
ステキさん

あら、想像力の欠如はシワの原因になるわよ? ほら、これをご覧なさい。(紙袋から長いフランスパンを抜き身の刀のように取り出す)生地こね子さんのパン屋で買ってきた、焼き立てのバゲットよ。

リリカ
リリカ

(チラリと見て)ただのフランスパンでしょ。炭水化物の棒。

ステキさん
ステキさん

ノン、ノン。甘いわ、プリンちゃん。これはただのパンじゃないの。「トラディション」よ。あなたは知らないでしょうけど、本場フランスにはね、厳格な法律があるの。「デクレ・パン」……1993年に制定されたパンの政令よ。

リリカ
リリカ

(本を閉じる)……へえ。母さんが法律の話をするなんて、珍しいね。いつもは「私の気分が法律」なのに。

ステキさん
ステキさん

ステキさんはいつだって博識よ。いい? 「トラディション」を名乗るバゲットには、許された材料はたったの4つ。「小麦粉」「水」「塩」、そして「酵母」。これだけ。

リリカ
リリカ

4つだけ?

ステキさん
ステキさん

そう。保存料も、着色料も、乳化剤も、一切の添加物は禁止。それに、冷凍保存も許されない。一切の混じり気なし、純粋無垢な小麦の魂だけが、この硬いクラストの中に閉じ込められているの。どう? このストイックな美学。まるで、何者にも染まらないステキさんみたいでしょう?

リリカ
リリカ

(少し感心したように)……ふうん。意外だわ。母さんがそんな、本質主義的な定義を知っていたなんて。余計なものを削ぎ落として、素材そのもので勝負する。それは悪くないわね。虚飾を排した実存の肯定……サルトル的ですらある。

ステキさん
ステキさん

でしょ? さあ、さっそくいただきましょう。このレシートを見て。こね子さんったら、品名のところに可愛らしい間違いをしてるのよ。

(玲子、レシートをリリカに見せる)

リリカ
リリカ

(レシートを見て)……「バケット 1点」。

ステキさん
ステキさん

ね?  「バケツ」だなんて。パンを入れる容器のことかしら? うふふ。

リリカ
リリカ

いや、それは単なる誤植か、あるいは店主の言語感覚の欠落ね。バゲット(baguette)は「杖」や「棒」。バケット(bucket)は「手桶」。語源からして違うわ。

ステキさん
ステキさん

(手元のパンを見つめ)でもね、ステキさんは思ったの。これはある意味、真理かもしれないって。

リリカ
リリカ

は? どこが?

ステキさん
ステキさん

だって、バケツは「受け止める器」でしょう? このパンは、私の溢れんばかりの愛と、バターと、そして何より「ステキさんという存在」を胃袋へと運ぶ、黄金のバケツなのよ。だから、今日からこれはバケットよ。

リリカ
リリカ

……さっきのフランスの法律、どこ行ったのよ。定義を勝手に書き換えないで。それが一番の「不純物」だよ。

ステキさん
ステキさん

(聞かずにパンを割りながら)細かいことはいいの。大事なのは「純粋」であること。……ねえ、プリンちゃん。あなた、さっき感心してたわよね? 材料が4つだけの純粋さについて。

リリカ
リリカ

まあね。現代社会はノイズが多すぎるから。ミニマリズムには敬意を払うわ。

ステキさん
ステキさん

じゃあ、考えてみて。このパンが「小麦、水、塩、酵母」だけでできているとしたら……「ステキさん」は何でできていると思う?

リリカ
リリカ

(嫌な予感がして)……さあね。カルシウムと、タンパク質と、水分じゃない?

ステキさん
ステキさん

ブブー。不正解。もっと本質的な構成要素よ。ステキさんもね、このバゲットと同じくらい、純粋な4つの材料でできているの。

リリカ
リリカ

……聞きたくないけど、学術的興味として聞いてあげる。何?

ステキさん
ステキさん

一つ目は、「圧倒的な自己肯定感」。

リリカ
リリカ

(ため息)でしょうね。

ステキさん
ステキさん

二つ目は、「他者からの羨望」。これが私のイースト菌ね。これがないと私、膨らまないの。

リリカ
リリカ

最悪の酵母だわ。他人の感情を養分にしてるのね。

ステキさん
ステキさん

三つ目は、「鏡」。水のように澄んだ鏡がないと、私は自分が存在しているか確認できないわ。

リリカ
リリカ

ナルシシズムの極みね。で、最後の一つは? 塩の代わりになる、全体を引き締める重要な要素は?

ステキさん
ステキさん

(リリカの顔を覗き込み、極上の笑顔で)「あなたのツッコミ」よ。

リリカ
リリカ

……は?

ステキさん
ステキさん

だって、誰も見てくれない舞台なんて、稽古場と同じでしょう? あなたが冷ややかに見て、呆れて、言葉を返してくれるから、ステキさんは「ステキさん」として焼き上がるの。いわば、あなたは私の「焼き窯」ね。

(リリカ、数秒間沈黙し、持っていたシオランの本をパタンと閉じる)

リリカ
リリカ

……訂正するわ、母さん。

ステキさん
ステキさん

あら、何を?

リリカ
リリカ

母さんはバゲットじゃない。やっぱり「バケット(バケツ)」だわ。

ステキさん
ステキさん

あら、どうして?

リリカ
リリカ

中身が空っぽで、他人の視線ばっかりジャブジャブ汲み取ろうとする、底の抜けたバケツ。……添加物だらけの人生ね。

ステキさん
ステキさん

(全く傷つかず、むしろ褒め言葉のように受け取り)まあ! 「無限に愛を受け取れる」ってことね? なんて詩的なの、プリンちゃん! さ、バケツにバターたっぷり塗って食べましょ!

リリカ
リリカ

(天井を仰ぎ)……不条理だ。カミュも匙を投げるレベルの不条理が、ここにある。

(リリカ、無言でバゲットをかじる。意外に美味しいという顔になる。玲子は姿見で前髪をミリ単位で直している。上機嫌)

おしまい

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