【登場人物】
矢尾 玲子:きさらぎタウンに暮らす、自称「ステキさん」。世界のすべては自分を美しく見せるための舞台装置である。
リリカ:玲子の娘。ここあん高校の「冷たい最強」。母親の過剰な自己愛には呆れているが、観察対象としては興味を持っている。
【場面設定】
きさらぎタウンにある矢尾家のリビング。モデルルームのように生活感がない。リリカはソファで、シニカルな厭世家エミール・シオランの『生誕の災厄』を読んでいる。そこへ、玲子が長い紙袋を抱え、凱旋パレードのような足取りで帰宅する。

(玲子、リビングの中央でポーズを決めるように立ち止まる)

ただいま、プリンちゃん。見て、このフォルム。今日のステキさん、パリの風を纏って帰還したわ。

(本から目を離さず)おかえり。……あと、私の名前はリリカ。プリンじゃないし、ここあん村にパリの風は吹いてない。あるのは湿気と、パン屋の排気ダクトの匂いだけ。

あら、想像力の欠如はシワの原因になるわよ? ほら、これをご覧なさい。(紙袋から長いフランスパンを抜き身の刀のように取り出す)生地こね子さんのパン屋で買ってきた、焼き立てのバゲットよ。

(チラリと見て)ただのフランスパンでしょ。炭水化物の棒。

ノン、ノン。甘いわ、プリンちゃん。これはただのパンじゃないの。「トラディション」よ。あなたは知らないでしょうけど、本場フランスにはね、厳格な法律があるの。「デクレ・パン」……1993年に制定されたパンの政令よ。

(本を閉じる)……へえ。母さんが法律の話をするなんて、珍しいね。いつもは「私の気分が法律」なのに。

ステキさんはいつだって博識よ。いい? 「トラディション」を名乗るバゲットには、許された材料はたったの4つ。「小麦粉」「水」「塩」、そして「酵母」。これだけ。

4つだけ?

そう。保存料も、着色料も、乳化剤も、一切の添加物は禁止。それに、冷凍保存も許されない。一切の混じり気なし、純粋無垢な小麦の魂だけが、この硬いクラストの中に閉じ込められているの。どう? このストイックな美学。まるで、何者にも染まらないステキさんみたいでしょう?

(少し感心したように)……ふうん。意外だわ。母さんがそんな、本質主義的な定義を知っていたなんて。余計なものを削ぎ落として、素材そのもので勝負する。それは悪くないわね。虚飾を排した実存の肯定……サルトル的ですらある。

でしょ? さあ、さっそくいただきましょう。このレシートを見て。こね子さんったら、品名のところに可愛らしい間違いをしてるのよ。
(玲子、レシートをリリカに見せる)

(レシートを見て)……「バケット 1点」。

ね? 「バケツ」だなんて。パンを入れる容器のことかしら? うふふ。

いや、それは単なる誤植か、あるいは店主の言語感覚の欠落ね。バゲット(baguette)は「杖」や「棒」。バケット(bucket)は「手桶」。語源からして違うわ。

(手元のパンを見つめ)でもね、ステキさんは思ったの。これはある意味、真理かもしれないって。

は? どこが?

だって、バケツは「受け止める器」でしょう? このパンは、私の溢れんばかりの愛と、バターと、そして何より「ステキさんという存在」を胃袋へと運ぶ、黄金のバケツなのよ。だから、今日からこれはバケットよ。

……さっきのフランスの法律、どこ行ったのよ。定義を勝手に書き換えないで。それが一番の「不純物」だよ。

(聞かずにパンを割りながら)細かいことはいいの。大事なのは「純粋」であること。……ねえ、プリンちゃん。あなた、さっき感心してたわよね? 材料が4つだけの純粋さについて。

まあね。現代社会はノイズが多すぎるから。ミニマリズムには敬意を払うわ。

じゃあ、考えてみて。このパンが「小麦、水、塩、酵母」だけでできているとしたら……「ステキさん」は何でできていると思う?

(嫌な予感がして)……さあね。カルシウムと、タンパク質と、水分じゃない?

ブブー。不正解。もっと本質的な構成要素よ。ステキさんもね、このバゲットと同じくらい、純粋な4つの材料でできているの。

……聞きたくないけど、学術的興味として聞いてあげる。何?

一つ目は、「圧倒的な自己肯定感」。

(ため息)でしょうね。

二つ目は、「他者からの羨望」。これが私のイースト菌ね。これがないと私、膨らまないの。

最悪の酵母だわ。他人の感情を養分にしてるのね。

三つ目は、「鏡」。水のように澄んだ鏡がないと、私は自分が存在しているか確認できないわ。

ナルシシズムの極みね。で、最後の一つは? 塩の代わりになる、全体を引き締める重要な要素は?

(リリカの顔を覗き込み、極上の笑顔で)「あなたのツッコミ」よ。

……は?

だって、誰も見てくれない舞台なんて、稽古場と同じでしょう? あなたが冷ややかに見て、呆れて、言葉を返してくれるから、ステキさんは「ステキさん」として焼き上がるの。いわば、あなたは私の「焼き窯」ね。
(リリカ、数秒間沈黙し、持っていたシオランの本をパタンと閉じる)

……訂正するわ、母さん。

あら、何を?

母さんはバゲットじゃない。やっぱり「バケット(バケツ)」だわ。

あら、どうして?

中身が空っぽで、他人の視線ばっかりジャブジャブ汲み取ろうとする、底の抜けたバケツ。……添加物だらけの人生ね。

(全く傷つかず、むしろ褒め言葉のように受け取り)まあ! 「無限に愛を受け取れる」ってことね? なんて詩的なの、プリンちゃん! さ、バケツにバターたっぷり塗って食べましょ!

(天井を仰ぎ)……不条理だ。カミュも匙を投げるレベルの不条理が、ここにある。
(リリカ、無言でバゲットをかじる。意外に美味しいという顔になる。玲子は姿見で前髪をミリ単位で直している。上機嫌)
おしまい


