これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
今日の巡回先は、東風公園の仮設住宅エリア。空は澄んでいて、ロマコメ号の日よけテントも完璧な角度で設置できた。コンテナに並べた本たちも、分類順に整然と背表紙を輝かせている。私の仕事は、この揺るぎない小さな秩序を、人々の日常にそっと置くことだ。
少し離れた広場では、ここあん大学の学生さんたちがボランティア活動をしていた。木製の椅子を組み立てたり、ペンキで色を塗ったり。楽しそうな声と、木屑の匂い、ペンキの少しツンとする匂いが混じり合った、活気のある混沌。私の静かな聖域とは、まるで世界の成り立ちが違う。
その混沌の中から、小柄なおばあちゃんが一人、ロマコメ号にやってきた。学生さんに付き添われている。彼女がリクエストしたのは、意外な一冊だった。
「虫の、図鑑はないかねえ」
私の頭の中では即座に『NDC分類:486(昆虫学)』の棚が検索される。幸い、子ども向けの学習図鑑が数冊あった。その中から一番精密な絵が載っているものを選び、貸し出し手続きを行う。完璧な手順。けれど、私の思考は分類の先で行き詰まる。
利用目的:不明。特記事項:……?
利用者のプライバシーに踏み込むべきではない。マニュアルにもそうある。でも、このリクエストは、私の整然とした貸出記録のリストの中で、少しだけ異質なものに感じた。
巡回終了の時間が近づいた頃、私は片付けをしながら、何気なく広場の方に目をやった。さっきのおばあちゃんが、学生さんたちに囲まれて、小さな木の椅子に何かを描いていた。その手元には、私が貸し出した昆虫図鑑が開かれている。彼女は、図鑑のテントウムシのページを熱心に見ながら、椅子の背もたれに、少し歪んだけど、愛らしい真っ赤な丸を描いていた。
そういうことだったのか。
私の想定していた本の役割は、「知識を得るための媒体」だった。でも、彼女にとってこの図鑑は、「創造するための見本帳」だったのだ。私の完璧な分類法の、斜め上を行く使い方。それはエラーでも、無秩序でもなく、もっとずっと豊かで、あたたかい何かだった。
ふと、レオ・レオニの絵本『フレデリック』を思い出した。仲間の野ねずみたちが、冬に備えて木の実やわらを蓄えている間、フレデリックだけは、ぼんやりと日向ぼっこをしている。「ぼくは きみの ために おひさまの ひかりを あつめてるんだ」。彼は、お日様の光や、色や、ことばを集める。一見、何の役にも立たないように見えるフレデリックの仕事が、長くて寒い冬の日に、凍えたみんなの心を温めることになる。
この昆虫図鑑も、そうだ。知識を蓄えるためだけじゃない。誰かの手から、新しい物語を生み出すための「おひさまの光」になることがあるんだ。私が守ろうとしている秩序は、なんて窮屈で、想像力に欠けていたんだろう。
……以前の私なら、きっと「素敵ですね!」なんて言って、おばあちゃんの隣に座り込んで、一緒に絵を描き始めていたかもしれない。今の私には、遠くからその光景を眺めて、胸の中で静かに反芻することしかできないけれど。
業務日報には、この出来事をどう記録すればいいのだろう。「貸出図書が、地域交流活動における創作活動に活用された一事例」。そんな乾いた言葉で、あのテントウムシの赤色を、おばあちゃんの嬉しそうな横顔を、書き留めることなんてできない。
今日のこの出来事は、まだ分類不能。でも、それでいい。私の書棚に、また一つ、行き場所の決まらない、けれどとても大切な本が差し込まれた。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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