高架下の歩道は、湿った鉄錆と、安っぽい揚げ油の匂いが混じり合って停滞している。頭上を、帰宅急行の数千トンが通り過ぎようとしていた。
「…………っ」
ひなは足を止め、奥歯を噛みしめる。耳を塞ぎたい衝動を、かろうじて理性が抑え込んでいた。彼女にとって、それは単なる「大きな音」ではない。砕かれた音程の礫だ。平均律から無残に逸脱した、四分の一音、八分の一音ずれた金属の摩擦音が、脳内の精密な調律台を容赦なく叩き、汚していく。
『いい、きゅうちゃん? あなたの耳は、神様から預かった高価な硝子細工だと思いなさい』
師匠米山共子の乾いた声が、記憶の底で警鐘を鳴らす。デジタルに間引かれたカラオケの音源や、劣化したスピーカーのノイズ、そしてこの、調律の放棄された暴力的な轟音。それらは耳の解像度を奪い、脳を濁らせる。「一度ついた耳の汚れを落とすには、三日、正しい音だけを聞き続けなきゃならない」というのが師匠の口癖だった。
「……ひな。おい、ひな」
馬楼の声が、地鳴りのような騒音の隙間から滑り込んでくる。ひなは青ざめた顔で、足元の汚れたアスファルトを見つめたまま動けない。指先が、無意識に空中の鍵盤を探し、濁った「ラ」の音を修正しようと震えている。
「もう、嫌。この音、全部間違ってる。ここ、通りたくなかったのに」
「悪かった、近道しようぜなんて言って」
馬楼は、いつもの「大丈夫だって」という軽薄な言葉を飲み込んだ。彼は知っている。ひなが時折、この世界そのものが「音痴」であるかのように、苦しげに眉をひそめることを。噺家が喉の調子を気にするのとは、次元の違う精密さが彼女の耳には備わっている。それは才能という名の、逃げ場のない檻だ。
馬楼は、ひなの隣で立ち止まった。なだめるような言葉はかけない。そんなものは、今の彼女の耳には、また別の「余計な雑音」として響くだけだと分かっていた。
馬楼は、自分が着ていた色褪せた朱色のドカジャンを脱ぐと、それをひなの頭から、鳥籠に布をかけるようにふわりと被せた。油と、煙草と、わずかに馬楼の匂いが混じった厚手の布が、視界を塞ぎ、外の世界の輪郭をわずかに遠ざける。
「わっ、えっ、馬楼さん?」
「無理に歩かなくていい。あと数秒で、上の鉄の塊は通り過ぎる。そしたら、一番静かな路地まで、俺が引っ張ってってやるから」
馬楼の声は、低い。騒音に抗うのではなく、その底を這うような、落ち着いた低音。ひなは、ドカジャンの中で目を閉じた。視覚を遮断し、馬楼の声という「基準点」だけを頼りに、脳内の調律をやり直す。
やがて、頭上の地鳴りが遠ざかり、代わりにキーンという長い耳鳴りが残った。世界が少しだけ、元の位置に戻ってくる。
「……行こう。もう、耳を貸さなくていい場所まで」
馬楼は、被せたジャンパーの袖を軽く掴み、ひなを導くように歩き出した。ひなは、彼の背中を見つめながら、一歩一歩、歪んだ空気の外へと足を踏み出す。
まだ、耳の奥はジンジンと熱い。けれど、先に歩く男の、少し猫背な背中が刻む不器用な歩調だけは、不思議と「聴いていてもいい」と思えた。
了
作・千早亭小倉
●馬楼とひなの物語(Kindle版)
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