お題004. 鉄路の軋みと耳の聖域

高架下の歩道は、湿った鉄錆と、安っぽい揚げ油の匂いが混じり合って停滞している。頭上を、帰宅急行の数千トンが通り過ぎようとしていた。

「…………っ」

ひなは足を止め、奥歯を噛みしめる。耳を塞ぎたい衝動を、かろうじて理性が抑え込んでいた。彼女にとって、それは単なる「大きな音」ではない。砕かれた音程ピッチの礫だ。平均律から無残に逸脱した、四分の一音、八分の一音ずれた金属の摩擦音が、脳内の精密な調律台を容赦なく叩き、汚していく。

『いい、きゅうちゃん? あなたの耳は、神様から預かった高価な硝子細工だと思いなさい』

師匠米山共子の乾いた声が、記憶の底で警鐘を鳴らす。デジタルに間引かれたカラオケの音源や、劣化したスピーカーのノイズ、そしてこの、調律の放棄された暴力的な轟音。それらは耳の解像度を奪い、脳を濁らせる。「一度ついた耳の汚れを落とすには、三日、正しい音だけを聞き続けなきゃならない」というのが師匠の口癖だった。

「……ひな。おい、ひな」

馬楼の声が、地鳴りのような騒音の隙間から滑り込んでくる。ひなは青ざめた顔で、足元の汚れたアスファルトを見つめたまま動けない。指先が、無意識に空中の鍵盤を探し、濁った「ラ」の音を修正しようと震えている。

「もう、嫌。この音、全部間違ってる。ここ、通りたくなかったのに」

「悪かった、近道しようぜなんて言って」

馬楼は、いつもの「大丈夫だって」という軽薄な言葉を飲み込んだ。彼は知っている。ひなが時折、この世界そのものが「音痴」であるかのように、苦しげに眉をひそめることを。噺家が喉の調子を気にするのとは、次元の違う精密さが彼女の耳には備わっている。それは才能という名の、逃げ場のない檻だ。

馬楼は、ひなの隣で立ち止まった。なだめるような言葉はかけない。そんなものは、今の彼女の耳には、また別の「余計な雑音」として響くだけだと分かっていた。

馬楼は、自分が着ていた色褪せた朱色のドカジャンを脱ぐと、それをひなの頭から、鳥籠に布をかけるようにふわりと被せた。油と、煙草と、わずかに馬楼の匂いが混じった厚手の布が、視界を塞ぎ、外の世界の輪郭をわずかに遠ざける。

「わっ、えっ、馬楼さん?」

「無理に歩かなくていい。あと数秒で、上の鉄の塊は通り過ぎる。そしたら、一番静かな路地まで、俺が引っ張ってってやるから」

馬楼の声は、低い。騒音に抗うのではなく、その底を這うような、落ち着いた低音。ひなは、ドカジャンの中で目を閉じた。視覚を遮断し、馬楼の声という「基準点」だけを頼りに、脳内の調律をやり直す。

やがて、頭上の地鳴りが遠ざかり、代わりにキーンという長い耳鳴りが残った。世界が少しだけ、元の位置に戻ってくる。

「……行こう。もう、耳を貸さなくていい場所まで」

馬楼は、被せたジャンパーの袖を軽く掴み、ひなを導くように歩き出した。ひなは、彼の背中を見つめながら、一歩一歩、歪んだ空気の外へと足を踏み出す。

まだ、耳の奥はジンジンと熱い。けれど、先に歩く男の、少し猫背な背中が刻む不器用な歩調だけは、不思議と「聴いていてもいい」と思えた。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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