新宿S亭の楽屋、出番を終えた馬太郎が、手際よく着物を畳んでいる。その横で、弟弟子の歌吉が、馬楼が忘れていったクタクタの羽織を苦笑いしながら眺めていた。
「しかし、馬楼兄さんは、ある意味じゃ天才ですよね」
馬太郎が、自分の真っ新な足袋をパチンと弾いて言った。
「なんだい、急に。あんなしくじりが年中行事の兄さんを捕まえて」
「いや、この前ね、兄さんと一緒に蕎麦屋に行ったんですよ。そしたら兄さん、メニューも見ないで『一番、喉に引っかかる蕎麦をくれ』って注文するんです」
「……引っかかる蕎麦?」
「ええ。『ツルツル入るような蕎麦は、食ってる気がしねえ。喉に喧嘩を売ってくるような、無愛想な奴が一番旨いんだ』って。店主も困り顔で、結局、一番太くて硬い、茹でる前の針金みたいなのを出しやがった」
歌吉は想像して顔をしかめた。
「で、どうしたんだよ」
「兄さん、真っ赤な顔して、涙目になりながら飲み込んでましたよ。最後には『これだ、この屈辱こそが蕎麦だ』って。……正直、ただの自虐行為にしか見えなかったけど、あのやり切る根性だけは、売れっ子の僕にも真似できませんね」
「それ、褒めてないだろ。ただの馬鹿だよ」
歌吉が吐き捨てると、馬太郎はさらに声を潜めて続けた。
「それだけじゃない。この前なんて、急ぎの仕事だってのに、わざわざ遠回りして石段の多い道を歩くんです。『平坦な道は心が弛む。常に重力と戦ってなきゃ、いい声は出ねえ』って。結果、高座に上がる頃には膝がガクガクで、正座した瞬間に足が痺れて、下げまで一歩も動けなくなってやんの。前座に抱えられて楽屋に戻る兄さんの背中、神々しかったですよ」
「……ただの計画性のないマゾヒストじゃないか」
「でしょう? あそこまで徹底して『不便』を愛せるのは、もはや一種の才能ですよ。あんなに効率の悪い生き方、普通の人には怖くてできません」
二人が「全くだ」とため息をついた、その時。ガラリと楽屋の戸が開き、着流しをはだけさせ、案の定、膝に湿布を貼った馬楼がフラフラと入ってきた。
「なんだい、お前たち。向こうまで声が響いてたぜ。どっかの馬鹿野郎の噂話でもしてたのかい?」
馬楼は、自分の羽織が歌吉に持たれているのも気づかず、空いている座布団の上にドサリと腰を下ろした。
「ええ、まあ。本当に救いようのない、不器用な男の話ですよ」
馬太郎が精一杯の愛想笑いを浮かべると、馬楼は「辛気臭え」と鼻で笑って、懐からクシャクシャの手ぬぐいを取り出した。
「それでも、馬鹿が一人もいねえ世の中も、窮屈でかなわねえだろ? で、どこのどいつだい? ただ、なまくら師匠だって話は無しにしとくれよ」
馬太郎と歌吉は顔を見合わせ、それから同時に、目の前の「大馬鹿野郎」に深く、深く一礼した。
了
作・千早亭小倉
●二つ目馬楼と代弾きひなの物語(Kindle版)
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