お題013. 背中の祝儀

六畳一間のアパート「コーポ松」の壁には、得体の知れない地図のような雨漏りのシミが広がっていた。それはオーストラリア大陸の形に似ていたが、タスマニア島にあたる部分にはカビが生えている。

部屋の空気が、湿った煎餅のような匂いを帯びていた。

酔酔亭すいすいていなまくらの生活圏は、この半径数メートルで完結している。色褪せた賞状が額縁の中で傾き、その下でなまくらは、煎餅のカスを指で弾いていた。

「師匠、お時間よろしいでしょうか」

弟子の馬楼ばろうが、正座をして頭を下げている。その熟れすぎたトマト色の着物が、薄暗い部屋の中で暴力的なまでに浮いていた。

なまくらは、弟子の頭頂部にある寝癖の渦をじっと見つめ、視線を窓の外へと逃がした。隣の棟のベランダで、誰かの派手な下着が風に煽られている。

「……なんだよ」

「あの、協会から連絡がありまして」

馬楼が、唾を飲み込む音が聞こえた。喉仏が上下し、緊張が着物の襟元を震わせている。

「真打昇進が、決まりました」

馬楼の声は、裏返る寸前のところで踏みとどまっていた。

なまくらは、鼻の穴をほじりながら「ふうん」と鼻を鳴らした。視線は依然として、風に揺れるピンク色のパンティに向けられたままだ。

「ご報告、ねえ」

なまくらの声は、三日前に開けた炭酸水のように気が抜けていた。

馬楼が顔を上げる。その目には、「よかったな」という一言を期待する犬のような光が宿っていた。尻尾が見えるようだ。

なまくらは、その期待をハエでも叩くように一蹴した。

「で、それがどうした?」

「えっ……いや、あのお、真打に……」

「馬鹿野郎」

なまくらは、ようやく視線を弟子に向けた。その目は、腐った魚を見るように冷ややかだった。

「真打になったからって、芸が上手くなるわけじゃねえ。ただ単に、出演料が高くなるだけだ。寄席の席亭にとっちゃあ、お前は『使いにくい高額商品』になるんだよ」

馬楼の顔から、さっきまでの紅潮が引いていく。トマトが青ざめていくようだ。

「今までは『なまくらの弟子』だからってんで、俺のバーターで仕事が回ってきてた。だかな、これからは違う。お前のその、もじゃもじゃ頭と、ひどい滑舌だけで客を呼ばなきゃならねえ。……暇になるぞぉ」

昇進したのに暇になる。なまくらは、脅しではなく、明日の天気を告げるように淡々と言った。そして、決定的な一言を放つ。

「いいか、馬楼。勘違いするなよ」

なまくらは、窓の外の下着から目を離し、弟子の目を射抜いた。

「てめえのことなんざ、誰も見ちゃいねえからな」

部屋の空気が、ピシリと音を立てて凍りついた気がした。

馬楼の口が半開きになり、そこから魂のようなものが漏れ出している。

なまくらは、弟子の絶望になど興味がないというふうに、身体をぐるりと反転させた。弟子に背中を向ける。その背中は、丸く、小さく、そして拒絶の壁そのものだった。

「茶だって、出さねえからな」

リモコンを手に取り、テレビをつける。ワイドショーの司会者が、不倫騒動についてもっともらしい顔で語り始めた。なまくらはボリュームを上げた。

「……はい」

馬楼の小さな声が、テレビの音にかき消される。

畳が擦れる音がした。馬楼が深々と頭を下げ、立ち上がり、そして部屋を出ていく気配。

やがて、鉄の扉が閉まる音が、銃声のように響いた。

ガチャン。

その瞬間だった。

なまくらの動きが、倍速再生のように加速した。

座布団から転がり落ちるような勢いで受話器をひっ掴むと、手垢で汚れたメモ帳を睨み、ダイヤルを回す。指が震えていた。

「あ、もしもし! 俺です、なまくらです」

さっきまでの冷徹な師匠の声はどこへやら、そこには借金取りに追われる多重債務者のような必死さがあった。

「ああ、社長! ご無沙汰してます! いやあ、元気元気、ピンピンしてますよ! やだなあ、もう、勘弁してくださいよ。でね、ちょっと折り入ってのお願いがありまして……」

なまくらは、受話器のコードを指で弄り回しながら、へこへこと頭を下げた。相手に見えるはずもないのに、その背中は海老のように曲がっている。

「うちの馬楼がね、真打になるんですよ。ええ、あのバカが。間違いじゃねえんです。でね、社長。あいつ、着物の一枚も新調する金がねえんでさ。……ええ、ええ。祝儀をね、弾んでもらえねえかと。ええ!」

なまくらは、電話口の向こうの相手に、ほとんど拝むようにして頼み込んだ。

「いや、俺が出してやりてえのは山々なんですがね、ほら、俺も昨日の競馬でスッちゃいまして……ってのは冗談で! とにかく、あいつに箔をつけてやりてえんです。お願いしますよ、社長! え、お披露目、それはもういろいろ考えて」

しばらくの沈黙の後、相手が良い返事をしたのだろう。なまくらの顔が、しわくちゃな笑顔に崩れた。

「ありがとうございます! 恩に着ます! ……あ、ただね、社長。一つだけ条件がありまして」

なまくらは、声を潜めた。まるで、国家機密でも漏らすかのように。

「このこと、俺が頼んだってことは、あいつには内緒にしてください。『お前のファンだ』とでも言って、渡してやってほしいんです」

なぜだと問う相手に、なまくらは窓の外の、風に揺れる下着を見上げながら、ぶっきらぼうに言った。

「あいつは調子に乗りやすいバカですから。俺が頭下げたなんて知ったら、一生ツケあがります。……それに、俺はあいつに、『誰も見てねえ』って言っちまったばかりなんでさ」

なまくらは電話を切ると、ふう、と大きなため息をつき、再びテレビに向かって背中を丸めた。

その背中は、先ほどよりも少しだけ小さく、そして、どこか温かそうに見えた。

壁のオーストラリア大陸のシミが、心なしか笑っているように見えた。

作・千早亭小倉

※本作は、以下の千早亭小倉著『あるある:飲み屋のママは〜』所収の「背中の祝儀」を本サイト用に書き直したものです。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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