移動図書館日記(4)

これは日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

「活動日誌への記載事項:本日午前、ボストー区の復興住宅前における滞在時間62分。利用者3名。貸出冊数5冊」

数字だけを見れば、この活動(移動図書館車による訪問)は非効率極まりない。厳守すべき「秩序ある運営」からはかけ離れている。以前の私なら、この空白の多い時間に苛立ち、改善策のリストを頭の中で作成していただろう。

けれど、ロマコメ号のステップを上がってきた、同世代の女性――。子供向けの絵本を探しながら、話はいつの間にか、好きなアイドルの話へと。

「この衣装、見てくださいよ! 先月のライブのなんですけど、これをフェルトで再現して、うちの子のぬいぐるみに着せてあげたら、すっごく喜んで」

彼女が語るのは、テレビの中の流行や、刹那的な熱狂。私の脳はそれを自動的に分類しようとする。だが、自分の手で何かを生み出した喜びを語る彼女の、少し誇らしげな横顔は、どの分類コードにも収まらなかった。

この日、彼女と入れ替わるようにやってきたのは、杖をついた80代のおばあちゃんだった。

「駅長さんだったのさ、うちの人はさ」

借りる本を決めかねている彼女の、ぽつりとした呟きから、物語は始まった。昔、夫が勤めていた小さな駅では、事務所の古い柱時計が何とも言えない良い音で鳴ったこと。

「ネジを巻くのは、主人の仕事だったのさ。毎朝同じ時間にね。時計がボーンって鳴るでしょう。その音を聞くと、ああ、今日も一日が動いてるなって、安心したものさ」

駅舎が取り壊され、時計もどこかへ行ってしまったこと。もう二度と聞けない、けれど耳の奥にだけはっきりと残っている時を告げる音。

私は、ただの聞き手になっていた。彼女の言葉は、どの書棚にも収められていない、たった一人の歴史。検索しても決して出てこない、生きた時間の記憶そのものだ。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、歴史からこぼれ落ちた名もなき女性たちの「声」を集め、『戦争は女の顔をしていない』を編んだ。私もまた、そのような「声」を聞いているのではないか。ロマコメ号は本を運ぶだけの車じゃない。失われ、忘れ去られようとしている物語を、そっと掬い上げるための場所になっている。

ロマコメ号の貸出受付は、バーコードリーダーではなく、手書きのノートだ。

この前時代的なシステムは、たしかに、早急に改善すべき「エラー」かもしれない。けれど、おばあちゃんの名前と、借りていく本のタイトルを一文字ずつボールペンで書き込む、その数十秒。沈黙とインクが紙に染みていく時間があるからこそ、彼女は言葉を紡ぎ始めるのかもしれない。貸し出しノートは、単なる記録簿ではない。誰が、いつ、どんな物語を求め、そしてどんな物語を私に託してくれたのかを記す、ロマコメ号の滞在中にだけ開かれる歴史書だ。

利用者数という「量的データ」は、この活動の本質を何も語ってはくれない。数字や効率だけが秩序ではない。人と人が向き合い、物語が生まれる、不確かで温かい時間。それが、この場所を守るための、新しい秩序に……なんて、らしくない感傷だ。活動日誌には、もっと事務的に書かなければ。私は冷静さを取り繕い、日誌の「定性的記録」の欄に、おばあちゃんとの会話の要点だけを淡々と記した。けれど、ノートの隅に、私にしかわからない記号で、こう書き加えることは忘れなかった。

――柱時計の、音。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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移動図書館日記
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