ようこそ、もうひとつの都の西北、「ここあん大学早稲田キャンパス」へ。 ここは最高峰の知性が、明日のパン代のために浪費される、都会のエアポケット。世界の危機より家賃が重い、愛すべき社会不適合者たちの日常劇。カビと珈琲香る地下室で、彼女たちの無駄に洗練された足掻きをご笑覧あれ。
場所:ここあん大学早稲田キャンパス・中庭(鬱蒼とした木々と赤レンガの壁際)
登場人物:
花野環奈(古生物学):地面と平行になることで精神の安定を保つ女。今日も服の汚れを「フィールドワークの勲章」と呼ぶ。
平泉慧(理論物理学):重力に逆らって立つことすらエネルギーの無駄だと考える女。日光が苦手。
状況:昼下がり。環奈が地面に這いつくばって何かを見つけ、慧がそれを立ったまま見下ろしている。
神田川からの湿った風が吹き抜ける、ここあん大学の中庭。樹齢不明の大木が影を落とし、地面は湿った土と苔、そして数十年分の学生たちの吸い殻や落とし物が堆積した「現代の地層」を形成している。
(環奈が、赤レンガの建物の基礎部分、苔むした地面に顔をこすりつけるようにして這いつくばっている。慧は、日傘をさしてその横に棒立ちしている)
環奈:……あったわ。
慧:何か知らないけれど、おめでとう。で、私はあと何分、直射日光を浴び続ければいいわけ? 私の肌のメラニン色素が悲鳴を上げているんだけど。
環奈:(土まみれの指で慎重に土を払いのけながら)今、歴史的な発掘の瞬間なの。見て、この美しい流線型。明らかに自然界の造形じゃない。
慧:……ただのゴミじゃないの? 形状から推測するに、ポリエチレンテレフタレートの残骸か、酸化したアルミニウム缶の成れの果てね。エントロピーが増大しきった姿よ。
環奈:この埋まり方は、意図的な埋葬よ。地層の年代測定……土の硬さと苔の厚みからして、およそ完新世後期、西暦で言うところの1990年代後半の層だわ。
慧:30年前を地質年代で語らないでくれる? 誤差の範囲よ、誤差。
環奈:(小さな白い卵型の物体を拾い上げる)見て。卵よ。
慧:……卵?
環奈:石灰化しているけれど、間違いないわ。3つの突起物が付いている。これは、当時の学生たちが崇拝していた、シリコンベースの人工生命体の繭ね。
慧:(日傘の下から覗き込み)……それ、「たまごっち」じゃない。
環奈:静かに! 名前を呼んではいけないわ。彼らは名前を与えられることで存在を確立し、そして世話をされなければ死滅する、非常に業の深い生命体だったのよ。
慧:ただの液晶ゲーム機よ。ボタン電池が切れれば終わり。物理現象として非常にシンプルだわ。
環奈:(本体についた泥を優しく拭き取りながら)いいえ、これは「死」の標本よ。見て、画面の跡が黒ずんでいる。この個体は、餌を与えられず、糞の処理もされず、持ち主のリュックの底で孤独に電子の海へ還ったの。
慧:やめて。その具体的な描写、なんか胸に来るものがあるから。私たちが先週出した学会の予稿集が誰にも読まれずにシュレッダーにかけられるプロセスと位相が似すぎている。
環奈:裏蓋が……錆びついて開かないわ。中の情報は完全に化石化している。ねえ慧ちゃん、この子の最期の姿、観測できるかしら?
慧:無理ね。シュレディンガーの猫と同じよ。蓋を開けて通電するまで、その電子ペットは生きているとも死んでいるとも言えない。もっとも、30年放置された回路に電流を流したら、抵抗値の異常で即座に熱死するでしょうけど。
環奈:そう……じゃあ、このままにしておきましょう。永久凍土の中で眠るマンモスのように。
慧:それがいいわ。過去の遺物を掘り起こしても、ロクなことにならないのは物理学も歴史学も一緒よ。
環奈:(地面に再び埋め戻そうとして、ふと手を止める)ねえ。
慧:何?
環奈:もし私たちが、誰かに飼育されている「たまごっち」の中の存在だとしたら……今の私たち、ちゃんと世話されているのかしら?
慧:……少なくとも、「給料」という名の餌は与えられていないし、「論文受理」というご褒美イベントも発生していないわね。
環奈:……。
慧:……。
環奈:……埋めましょう。深く。
慧:ええ。私の絶望も一緒に埋めてちょうだい。
(環奈、無言で土をかけ始める。慧、日傘を傾け、その小さな墓標に影を落としてやる)
環奈:ねえ、電子の幽霊って、やっぱり電気羊の夢を見るのかしら?
(木々のざわめきだけが答える)
(幕)
作・千早亭小倉
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