ここは異なる知性が接する断層、「ラウンジ・アンコンフォーミティ」。天才ゆえに絶妙に噛み合わない研究者たちの、静かで熾烈な言葉の応酬。この風変わりな知的コメディを、どうぞ心ゆくまで。
【登場人物】
篠田 律 :分子系統学 / バイオインフォマティクス。万物を情報と分岐として捉える。
りつ:篠田律のAI。律のタブレットから声がする。高速でデータを参照し、応答は統計データで裏付けられる。
【舞台】
『ラウンジ・アンコンフォーミティ』。 夕暮れ時。ラウンジには律が一人だけ。 彼女はタブレットを凝視している。画面には、複雑怪奇な系統樹がいくつも表示され、高速でスクロールされている。
(幕開け)
1.ラウンジ(ハブ)SHINO-HUB※ 夕暮れ
(静寂。律の指が、タブレットの画面上を滑る音だけが響いている)
律:(タブレットを見つめたまま、小さく呟く)……ダメね。この分岐、統計的信頼度が低すぎる。ノイズが多すぎて、系統が安定しない。共通祖先の特定が……。
(律、思考を整理するためか、ふと顔を上げる。その時、視界の端、ソファの脇に立てかけられた一本の傘が目に入る。それは、どこにでもある安価なビニール傘。特に何の変哲もない)
律:(無表情に傘を見つめる)……オブジェクト。属性:ビニール。状態:静止。配置:非最適。
(律、すぐに視線をタブレットに戻そうとするが、ふと動きを止める。彼女の目が、常人には見えない情報空間をスキャンするように、わずかに見開かれる )
律:……待って。このオブジェクトは、なぜこの座標に存在する?
(律が立ち上がり、傘に近づく。まるで未知のサンプルを扱うように、指先でそっと傘の持ち手に触れる)
律:(モノローグ)この「ハブ」 へのアクセスログを脳内で再生。本日この空間を共有したノードは、花野 環奈、平泉 慧、そして私。
(律の指が、空中でカタカタとキーボードを打つような仕草を見せる )
律:仮説1、花野氏の所有物。(即座に)棄却。彼女は「形態」の信奉者。このような情報量の少ない大量生産品を、自身の表現型として選択する確率は低い。彼女なら、中生代のシダ植物が転写されたような柄を選ぶ。
律:仮説2、平泉氏の所有物。棄却。彼女は「法則」の信奉者。降雨というパラメータに対し、「傘」というアナログな物理的障壁で対抗するソリューションは、彼女にとってエレガントではない。彼女は確率的に「濡れない」ルートを計算するか、そもそもこの「ハブ」への移動をキャンセルする。
(律、傘の持ち手をじっと観察する。そこには微細な傷がついている)
律:後天的変異。だが、ユニークな識別子(ID)としては弱すぎる。……この傘は「忘れられた」のではない。「意図的に残された」情報パケットである可能性は?
(律の思考が、高速で回転し始める)
律:これは「文化的遺伝子」か? この傘をこの「ハブ」に配置することで、「外部環境(天候)の変動」というシグナルを、後続のアクセス・ノード(私や環奈氏)に伝達しようという、非同期的なコミュニケーション・プロトコル。……だが、非効率だ。
りつ(AI):(タブレットから)篠田律、気象庁のナウキャストによれば、半径5km圏内の降水確率は、今後3時間、10%未満です。
律:(AIの声は聞こえていないかのように)環奈氏なら、これを「地層の一部」と呼び、堆積物として放置するだろう。平泉氏なら、「無秩序な物体」として観測対象から除外する 。……この情報の真意をデコードしようと試みているのは、私だけ。この「ハブ」において、私だけが、このノイズに意味を見出そうと、CPUを無駄に消費している。
(律、不意に、傘の持ち手に巻かれた小さな白いタグに気づく。彼女は無表情でそのタグをつまみ、文字を読む)
律:(読み上げる)「ラウンジ・アンコンフォーミティ 共有備品」……。
(一瞬の沈黙)
りつ(AI):篠田律。それはこの「ハブ」の共有リソースです。系統樹で言えば、特定の個人に属さず、この空間という根に直結しています。
律:……そう。最も単純な系統。データセットの初期化が必要ね。
(律、無表情のまま傘を元の場所に戻す。そして、まるで今までの数分間がなかったかのように、きびすを返して自分の席に戻る)
律:(タブレットに向かい、再び指を高速で滑らせながら)……りつ。先ほどの分岐点。パラメータを再設定。ノイズ因子をすべて棄却し、最尤法で再計算を開始して。
(律の目は、もはや傘の方を見ることはない。彼女は再び、膨大な情報空間へとスキャンするように、深く画面に没入していく )
(幕)
作・千早亭小倉
※SHINO-HUB: 篠田律がラウンジ内で好んで使用する特定の区画。物理的な場所であると同時に、彼女が他のノード(環奈、慧など)の情報や動向を観測・スキャンするために最適化した、彼女専用のネットワーク接続点を指す。こう呼んでいるのは、もちろん律だけである。
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