高校時代の三者面談で、担任教師が私の進路について尋ねた。当時、本気でそう思っていた私は、何のてらいもなく「漫画家になりたいです」と答えた。別に大学へ行かないと宣言したわけでもなかったのだが、その正直すぎる答えに、教師も、隣に座っていた母親も、揃って鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっていたのを、今でもよく覚えている。
もしこれが小説ならば、この場面は主人公にとっての重要なターニングポイントとして描かれるはずだ。この一件をきっかけに、少年は「正直すぎる心は時として人を傷つけ、自分をも追い詰める」という苦い教訓を得る。そして、己の内面を巧みに隠す術を身につけ、少しだけずる賢い大人になっていくのだ、と。物語としては、実にまとまりが良く、美しい。
だが、残念ながら、私の人生は三文小説ほどわかりやすくはできていなかった。性懲りもなく、私は今でも聞かれたことに正直に、そして律儀に真正面から答えてしまう。あの頃の「くせ」は、まったく抜けていないのだ。
例えば、病院に予約の電話をかけるとする。受付の人は、マニュアル通りにこう尋ねてくる。「どうされましたか?」と。これはもちろん、「ご用件は?」という意味の、社会的な記号に過ぎない。ここで「◯◯先生の予約をお願いします」と答えるのが、円滑なコミュニケーションというものだろう。 しかし、私はつい、自分がその電話をかけるに至った経緯を、物語の冒頭から訥々と語り始めてしまうのだ。「先日来、◯◯が悪くて◯◯先生に診ていただいておりまして、ええと、そちらでいただいた薬がそろそろなくなりそうで……」と。電話の向こうで、受付の人が少しだけ困惑している気配が伝わってくる。
役場で健康保険の手続きをする時も、同様だ。「どうされましたか?」という職員の問いに、私は「先日、勤めていた会社を辞めまして」という、自分語りの第一章から始めてしまう。彼らが知りたいのは「国民健康保険への加入手続き」という結論だけであると気づくのは、「それではそちらでお待ちください」と後ろのソファをすすめられた後だ。
なぜ、こんな面倒なことを繰り返してしまうのか。思うに、私は「どうされましたか?」という言葉を、その文字通りの意味でしか受け取れないのかもしれない。つまり、「あなたの身に起きた、ここに至るまでの物語の導入部分を、さあ、お聞かせください」という、インタビューの開始合図のように。
手続きや用件という無味乾燥なラベルの裏側には、必ず固有の文脈や、個人的な事情という名の、ささやかな物語が存在する。それを省略し、ただ「用件」だけを切り取って差し出す行為に、どこか後ろめたさや、不誠実さを感じてしまうのだ。こうなると、ひねくれ者なのか正直者なのか、とんとわからなくなる。
小説の主人公のように、一つの挫折からスマートな教訓を得て、器用に世の中を渡っていくことは、何年経っても、何十年経っても、私にはどうやらできそうにない。心を閉ざすどころか、頼まれもしないのに、今日もどこかで自分の心の冒頭部分を不用意に開陳している。
まあ、そんな不器用さも、悪くないと思いたい。「用件を先に言え」と世界から叱られながら、私は今日も、正直すぎる物語の続きを生きていくのだ。
(千早亭小倉 記)
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