第1編:居酒屋『海(うみ)』の濁り酒
椎名町3丁目の夜は、古びた毛布のように重たくて温かい。
居酒屋「海」の暖簾をくぐると、揚げ物の匂いと安酒の蒸気が、町助の青い帽子を優しく包んだ。彼はカウンターの隅に座り、お通しのポテトサラダを箸の先でつつく。
この店のポテトサラダは、いつも少しだけジャガイモの塊が残っている。その不器用さが、町助にはちょうど良かった。
「なあ、知ってるか。あの裏通りの、看板のない店」
背後の小上がりで、作業服を着た男たちが声を潜めていた。潜めているつもりだろうが、酒が入った声は、使い古された雑巾のようにぼたぼたと湿った音を立てて漏れ聞こえてくる。
「ああ、『ものがたり屋』だろ。あすこに行くとさ、憑き物が落ちるって話だ」
「憑き物?」
「ああ。誰にも言えねえような、胸の奥で腐りかけた話だよ。それをあの店主の女に話すと、不思議と翌朝には、ただの寝言だったみたいに軽くなるんだと。……ただ、帰ってくる奴のツラが、どいつもこいつも、ひどくエロいんだよな」
男たちは下卑た笑い声を上げたが、その声の底には、自分たちもそこへ行きたいという、切実な飢えが透けて見えた。
町助はコップの濁り酒を、ゆっくりと喉に流し込む。
彼らが噂しているのは、自分の住処の一階のことだ。けれど、町助は「自分はそこに住んでいる」とは口にしない。彼はただの背景であり、風景の一部でなければならないからだ。
店主の真田まるが、客のどんな「物語」を食っているのか。
町助は、それを知らない。知ろうとすることも、彼にとっては、他人の靴の中に勝手に足を入れるような、無作法なことに思えた。
「おにいさん、お代わりかい?」
「海」のママが、脂の乗ったツヤツヤした手で一升瓶を掲げる。町助は、小さく笑って頷いた。
外では、雨が降り始めていた。
第2編:膝の上の重み
「あんさんは、ほんまに何も分かってへんなあ」
ものがたり屋二階の、足の踏み場もない書庫。
町助が古い資料をめくっていると、おはぎはんがドカドカと階段を上がってきた。彼女は断りもなく町助の膝にどっかりと腰を下ろす。温かくて、少しだけ石鹸の匂いがした。
「重いよ、おはぎはん」
「重いのは、うちやなくて、まるさんが毎日背負うてるもんや。あんさんは、その横で呑気に猫の絵なんて描いて。アホやろ」
おはぎはんは町助の顎を、少しだけ強い力でクイと持ち上げた。
彼女の目は、いつになく真剣だった。
「ものがたり屋はな、ただの話聞きやない。まるさんは、相手の人生の『一番汚れた部分』を、自分の肌で吸い取ってはるんや。あんたの下で、まるさんがどれだけ真っ黒な汗をかいてるか、想像したことある?」
町助は答えなかった。おはぎはんの太ももの柔らかさを感じながら、ただ、窓の外を眺める。
「……想像は、しないよ。それは僕の仕事じゃない」
おはぎはんは「はぁー」と深い溜息をつき、町助の胸に頭を預けた。
「……そこが、あんさんのずるいとこやわ。冷たくて、一番、まるさんを甘やかしてる」
第3編:ほうじ茶の詩
夜が深まり、ものがたり屋も閉まった後。
真田まるが二階へ上がってくる。彼女はいつものように、香ばしく淹れたほうじ茶を二つの湯呑みに注いだ。
町助が何も聞かないのを承知で、彼女はぽつり、ぽつりと語り出す。それは報告というより、彼女の口から零れ落ちる、言葉の破片のようだった。
「今日はね、助さん。砂時計をずっと握りしめているような、そんな男の人が来はったわ」
まるは、自分の細い指先をじっと見つめる。
「その人の物語はね、もうすぐ終わるはずやのに、一粒の砂がどうしても落ちへんって、泣いてはった。うちはね、その砂の代わりに、その人の『寂しさ』をちょっとだけ預かってあげてん。そしたら、その人、帰る時には、春の陽だまりみたいな顔してはったわ」
まるの言葉は、詩のように静かに響く。
彼女は時折、喉を「ゴクリ」と鳴らす。それは、吸い取った他人の物語を、自分の体内で消化しようとする時の音のようにも聞こえた。
「助さん、うちはね、この街の『ゴミ箱』でもいいと思ってる。でも、時々ね、中身がいっぱいになって、蓋が閉まらへんようになるんよ」
まるは、町助の膝にそっと触れた。町助は、その手の冷たさに驚きながらも、ただ「そうかい」とだけ言った。
彼がそれ以上を言わないことで、まるの溢れそうな心は、わずかに均衡を保っているようだった。
第4編:聞こえない会話
ものがたり屋一階の土間で、まるとおはぎはんが片付けをしている。
町助は二階で、わざとらしく古い蓄音機の針を落とした。ノイズの混じった古いジャズが、床板を揺らす。彼が「聞いていない」ことを示すための、彼なりのルールだった。
「……まる、助さんにどこまで話したん?」
おはぎはんの声が、音楽の隙間から、ささやきのように聞こえてくる。
「何も。助さんは、何も聞きたがらへんもの。あの人は、ただそこに『居てくれる』だけ。それがどれだけうちを救ってるか、助さん自身は、一生気づかへんのやろね」
まるの、少しだけ潤んだような声。
「うちらがどれだけ毒を吸っても、あの人が真っ白な『背景』でいてくれるから、うちはまた、明日も誰かの物語に溶けられるんや。おはぎ、助さんのことは、あのままにしておいて。あの方は、うちの『鏡』なんやから」
町助は、二階の窓を開けた。
湿った夜風が入り込み、蓄音機の音楽をかき消していく。
自分は背景でいい。いや、背景でなければならない。
町助は、青い帽子を深く被り直し、誰もいない夜の街に向かって、小さく「ワロス」と呟いた。
了
作・千早亭小倉

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