徒 然士

ただ せんじ

年齢・性別: 51歳・男性

肩書: 小説家、文芸評論家、私立ここあん大学日本文学科講師

・・・はっ、さて。諸君、静粛にしたまえ。これから、このわぁたくしが、わぁたくし自身のことを、わぁたくしのために語ってやろうというのだ。心して聴くように。

わぁたくしが、徒然士である。よいか、ゆめゆめ間違えるでないぞ。「つれづれし」などという、無教養の極みのような読み方ではない。姓が「ただ」、名が「ぜんじ」。まったく、昨今の人間は自国の言語に対する敬意というものを、母の胎内に置き忘れてきたとしか思えんな。

わぁたくしを定義する言葉は多々ある。文芸評論家、小説家、そして未来ある(と信じたい)若人共に美の何たるかを説いてやる大学講師。だが、それらはすべて些末な記号に過ぎん。わぁたくしの本質、その揺るぎない骨格を成すもの 、それは「完璧なる様式美」に対する、偏執的とまで言われる絶対的な信仰に他ならないのだ。

この世界は、嘆かわしいことに「野暮」で満ち満ちている。醜悪な看板、機能性という名の冒涜にまみれた建築、そして何より、感情の吐瀉物としか言いようのない、野放図な「文学」と称されるものの数々。わぁたくしの使命は、それら一切の「野暮」を根絶し、この混沌とした世界を完璧な調和と秩序の光で照らし出すことにある。それは、もはや啓蒙という生易しい行為ですらない。救済なのだよ。

無論、わぁたくしの言う「美」は、諸君らが考えるような高尚なものに限定されるわけではない。たとえば、駄菓子のパッケージに施された、計算され尽くした色彩の配置。あるいは、カップ焼きそばの湯切り口という、機能性と形態が奇跡的な融合を果たしたあの工業デザイン。そこにすら、完璧な様式美は宿るのだ。森羅万象は、わぁたくしの審美眼の前では等しく批評の俎上に載せられる運命なのだよ。

して、このここあん村。ああ、なんたる混沌の坩堝か。わぁたくしの美学に対する挑戦、いや、冒涜と呼ぶべき現象が日々発生している。日雇い労働の汗の匂いを「詩情」と勘違いしている、文学界の野良犬のような男。民家の軒先で語られる与太話を「生きたテクスト」などと称して、泥のついたまま大学に持ち込む准教授。挙句の果てには、文学をAIで解剖するなどという、解剖医まがいの所業に悦に入る若輩者までいる始末だ。彼らの存在そのものが、わぁたくしの聖域を侵すノイズなのだよ。

そんな中にあって、理解不能だが無視できぬ存在もいる。「未完の傷にこそ美が宿る」などと宣う、美術教師の女性。彼女の哲学はわぁたくしのそれとは水と油。だというのに、なぜだろうな、かの灰色の瞳の奥に揺らめく光には、危険な引力を感じずにはいられないのだ。

近頃、わぁたくしは劇団「かもかも」なる集団の座付き作家も務めることになった。愛だの恋だのに遭難し続ける男 、ゆるキャラの仮面の下に激情を隠す女 、そしてプロ意識だけは高い関西人の女優。まったく、制御不能な役者ばかりだ。だが、面白い。

わぁたくしが谷崎や三島にも比肩する様式美の結晶として紡ぎ出す、完璧な戯曲という「器」。その中に、彼らのあまりに生々しく混沌とした「中身」が注がれた時、そこに生まれる予測不能な亀裂こそが、新たな美の地平を切り開くのかもしれん。

ふん、これだけ語っても、諸君らの蒙は啓かれんか。まあ、よい。わぁたくしの信じる美の道は、孤高にして険しいのだ。このどうしようもない世界と、その世界の縮図たるこの村で、わぁたくしがただ一人、美の灯台守として立ち続けることの、この息苦しさ! ああ、もう!

ちょんまげ生えるわ

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