【あらすじ】※ネタバレあり
ガールズバンドのギタリストいときちは、バンドのスタジオ代を稼ぐためのFX取引に失敗し、深夜二時、アパートのトイレで口座残高全てを失い、強制ロスカットとなる。絶望の中、姉の真田丸からスタジオ代の催促メッセージが届き、彼女はさらに追い詰められる。いときちは床に転がったテレキャスターを拾い上げ、アンプのボリュームを最大にし、ブウウウウンというハムノイズを響かせる。階下の住人からの抗議の打撃音を合図に、彼女は弦を切り裂くような暴力的で不協和音だらけの騒音の洪水を撒き散らし続けた。それは、現実から耳を塞ぐための、自傷行為にも似た行為だった。
「いときちのグリッサンド」
深夜二時。いときちは、便座に座っていた。古いアパートの、換気扇の壊れたトイレだ。防音材などという気の利いたものは壁に埋まっていない。隣室の男が打つキーボードの音も、階下の住人が寝返りを打って軋ませるベッドの音も、すべてが壁の石膏ボードを透過して、彼女の鼓膜に届いていた。右手に握ったスマートフォンだけが、この薄汚れた空間で唯一の光源だった。液晶画面に映る外国為替のチャートが、彼女の顔を青白く照らしている。
便器に座らないと、この部屋では集中できなかった。リビングのデスクトップPCでは駄目だ。三つのモニターはあまりに多くの情報を寄越しすぎる。コード、ログ、そしてチャート。情報が多すぎると、現実を誤魔化せる。だが、この狭い個室で、たった一つのチャートだけを睨んでいると、逃げ場はどこにもなくなる。
レバレッジをかけたポジション。あと三日で支払わなければならないスタジオ代。バンドのメンバーには「クラウドファンディングが好調だ」と嘘をついた。その嘘を現実にするための、これが唯一の手段だった。指先が、汗でスマートフォンの側面を滑る。腹の底が冷たい。便意ではない。口座の残高が、じりじりと命のように削られていく感覚だ。
経済指標の発表時刻。その瞬間、ローソク足が意思を持ったように垂直に落下を始めた。緑の線が消え、赤一色の、長い長い滝になった。滝壺はない。ただ落ちていくだけだ。彼女の口座の数字が、凄まじい速度で溶解していく。脳が理解を拒む。指が動かない。損切りなどという理性的な判断は、とうの昔に麻痺していた。
(ああ)
声にならない声が、喉の奥で潰れる。胃の内容物が、食道を逆流してくる感覚。彼女はスマートフォンの画面から目を離し、目の前の、黄ばんだ壁に描かれた落書きに視線を移した。前の住人が書いたのであろう、「死ね」という、ボールペンで執拗に書き込まれた文字。その瞬間、口座の残高はゼロになり、そしてマイナスに転落した。強制ロスカット。すべてが終わった。
スマートフォンの画面を消す。暗闇と静寂が、急に現実味を帯びて彼女にのしかかる。換気扇の代わりに開けていた小窓から、湿った夜風と、どこかの家の室外機が発する単調な低音が流れ込んできた。彼女はしばらく、便座の上で動けなかった。涙は出ない。ただ、全身の関節が錆びついて固まったような、鈍い感覚だけがあった。
ゆっくりと立ち上がり、リビングに戻る。壁に立てかけられた、黒のテレキャスターが目に入る。数時間前までは、新しい機材を買うための希望の塊だったものが、今ではただの重たい木材と鉄の塊にしか見えない。それでも、彼女は無意識にそれを手に取った。アンプには繋がない。右手のピックが、震える指で6弦に触れる。
ジャ、ン……。
鳴ったのは、チューニングの狂った、間の抜けた音だった。彼女の指は汗で滑り、フレットを正確に押さえられていない。苛立ちが、絶望よりも先にやってきた。もう一度、今度は苛立ちを叩きつけるように、弦をかき鳴らす。
ギャンッ!
その時、机の上のスマートフォンが振動した。姉の『真田丸』からだった。彼女はそれを無視して、何度もギターをかき鳴らした。無意味なコード。音楽ではない、ただの騒音。画面は執拗に明滅を繰り返している。無視しきれず、彼女はギターを床に放り出し、メッセージを開いた。
『スタジオ代、明日までに振り込んで。立て替えるの、これで最後だから』
追い打ちをかけるような、簡潔で、事実だけが記載されたテキスト。姉の顔が目に浮かぶ。軽蔑と、わずかな憐憫が混じった、あの顔。
いときちは、床に転がったテレキャスターを拾い上げると、今度は部屋の隅の小型アンプに、シールドを乱暴に突き刺した。ボリュームのノブを、最大までひねる。
ブウウウウン……!
耳障りなハムノイズが、部屋を満たした。その瞬間だった。
ドンッ!
床下から、腹に響く鈍い衝撃が突き上げた。階下の住人からの、直接的で、暴力的な抗議だ。
いときちの動きが、一瞬止まる。だが、彼女の口元に浮かんだのは笑みではなかった。表情は抜け落ち、能面のように固まっていた。彼女は、アンプに向かって一歩踏み寄ると、ピックを握りしめた右腕を振り上げた。
ドン!ドン!と、抗議の音が続く。それはビートではなかった。生活を破壊された人間の、正当な怒りの表明だった。
次の瞬間、彼女のピックが弦を切り裂いた。アンプから吐き出されたのは、暴力的で、不協和音だらけの、ただの音の洪水だった。階下の住人が壁を叩けば叩くほど、彼女はギターのネックを握る左手に力を込め、弦が指に食い込む痛みも構わずに、ただ騒音を撒き散らし続けた。
それはセッションではない。姉からのメッセージ、マイナスになった口座残高、階下からの打撃音、そのすべてから耳を塞ぐための、自傷行為だった。彼女の身体はけいれんするようにリズムを刻み、汗が目に入り、視界が滲む。その狂乱の向こう側に救いなどないことを、おそらく、彼女自身が一番よく分かっていた。
(了)

