六月の雨

六月の雨は音もなく、世界の輪郭を静かに滲ませていた。

ブックカフェ「シズカ」の大きな窓ガラスを、名前もない筋となった雨水が無言で流れ落ちていく。店内に満ちるのは、焙煎された豆の香ばしさと、古い紙が湿気を吸って放つ微かな甘い匂い。レコードプレーヤーの針が拾う、控えめなピアノの旋律だけが、その静寂に柔らかな縁取りを与えていた。

カウンターの内側では、中野小春がネルのフィルターにゆっくりと湯を注いでいる。磨き上げられたケトルの口から引かれる細い湯線が、こんもりと膨らんだ粉の中心に吸い込まれていく。黒い雫が、ガラスサーバーの底に一つ、また一つと落ち、小さな円を描いては消える。彼女はその反復される営みから、一切の感情を読み取らせない。ただ、湯の温度を、豆の呼吸を、その指先だけで聞いているかのようだった。

窓際の席で、氷上静は開かれた本の頁に視線を落としていた。彼女の世界は、その活字の連なりの中に閉じられている。時折、白く細い指先が、乾いた音を立てて頁の端をめくるだけだ。外の煙るような風景も、店内に流れる音楽も、彼女の意識の地平には届いていない。その横顔は、雨の日の湖面のように、ただ静かにそこにあった。

奥のテーブルでは、学生らしい男が一人、厚い学術書に顔を埋めている。入口近くのソファには、老婦人が編み物の手を止め、煙るように濡れた庭の景色に目をやっていた。誰も言葉を発しない。だが、そこにあるのは断絶ではなかった。それぞれの孤独が、この空間の静けさを構成する一つの音符となり、途切れることのない和声を奏でている。

やがて小春が、サーバーに溜まった黒い液体を、金継ぎの施されたカップに静かに注ぐ。カウンターに置かれたカップが立てた微かな音。その音に、静の指がぴたりと止まった。本から顔を上げることなく、ただ、その音の余韻だけを味わうように。

雨脚に変化はない。世界の彩度が、ほんの少しだけ、深まった。

作・千早亭小倉

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