月の裏側の観測

指先で画集のページを繰る。上質なマット紙特有の、湿り気を帯びた重たい音がした。

氷上静は、カウンターに広げた『クレセント・ムーン』の一点を凝視している。

開かれたページには、月が描かれていた。だがそれは、夜空に浮かぶ無機質な岩石ではない。鋭角的な鼻を持ち、眼窩の奥に暗い穴を宿した、人間とも仮面ともつかない奇妙な横顔だ。パステルとテンペラが塗り込められたその青色は、癒やしというよりは、深海の底のような圧力を放っている。

視覚情報が脳内で言語化されるよりも早く、十年前の記憶が物理的な重みを持って蘇る。それは思考というより、首筋を冷たい手で撫でられたような、生理的な不快感と高揚感が混ざりあったものだった。

「……スタシス、ですか。ええと、スタシス・エイドリケビチェス」

背後から、中野小春の声がした。彼女の手には、拭き上げたばかりのグラスが握られている。その布の擦れるキュッ、という音が、静の思考を現実の座標へと引き戻した。小春はカウンター越しに、静の手元を覗き込む。

「その画集を見ると、なんだか皮膚の裏側が粟立つような感じがします。作者は、『月は遠くて近い友人』と言ってましたよね。彼が歌う歌を、月だけが聞いてくれた、って」

「ええ。知っているわ」

静は視線を画集の「青い顔」に落としたまま答える。小春は首を少し傾げ、元編集者らしい批評的な眼差しを、やや不気味とも取れるその絵に向けた。

「でも、友だちにしては、冷たいし、少し怖い気もしませんか? 静さん、昔、誰かにこの画集を贈ったことがあるって言っていましたよね。『これを見てあなたを思い出した』って。私ならどう受け取るだろう、この本を……」

「……十年前の話よ」

「その時、静さんはどういうつもりだったんでしょう」

小春は手元のグラスを置き、静の横顔を探るように見つめた。

「あなたが孤独な歌を歌っていることを、私は知っているという共感でしょうか。それとも、私がその歌を聴く『友達』になりたいという、親愛の情の表明? それとも……」

小春の言葉には、複数の解釈の可能性がふわふわと漂っていた。肯定的な共鳴か、あるいは孤独の指摘か。彼女は静の過去の行動に、人間的な温かみのある「正解」を見出そうとしていた。

静はページから指を離し、ふぅ、と肺の底から息を吐き出した。腰のあたりに、長時間座り続けたことによる鈍い痺れがある。そのかすれのような感覚が、かえって思考の輪郭を鋭利にした。

「小春」

静は顔を上げ、照明の落ちた店内の薄闇を見据える。

「君の挙げた選択肢は、どれも『関係性』を求めているわね。でも、そのときの私の意図はもっと即物的で、一方的な定義だった」

「定義、ですか」

「ええ。彼が孤独な主人公かどうかなんて、私にはどうでもよかった。彼が歌っているかどうかも、検証のしようがない」

静は、画集の中の、穴の空いた目をした月を爪先で叩いた。

「私は、彼の人生に干渉もしないし、彼の歌に拍手もしない。ただ、この夜空に浮かぶ三日月のように、そこに在って、彼を無機質に照らし続けるだけの存在になりたかったのよ」

小春が息を呑む気配がした。

「友達ですらない。私は『観測装置』としての位置取りを確定させるために、これを贈った。彼の孤独を埋めるのではなく、その孤独の輪郭を正確に照射してあげること。それが、当時の私なりの、最大限の誠実さだった」

十年前の彼。画集を受け取った時の、あの困惑した顔。だが静が差し出したのは、理解でも救済でもなく、ただ冷徹に彼を照らし出すだけの、遠い天体からの視線だった。あれは、彼にとっては拒絶よりも残酷な、存在の棚上げだったのかもしれない。

静寂が、二人の間に満ちた。冷蔵庫のコンプレッサーが低い唸りを上げ、止まる。

「……月になりたかった、ですか。寄り添う友達じゃなくて」

小春の声は、呆れているようでもあり、どこか納得したようでもあった。

「でも、『あなたを思い出した』とだけ言って渡したのよね」

小春が何を言いたいのかはかりかねて、静はだまっていた。

「静さんらしいけれど、『ああ、僕はこの月なんだ』って思わなかったかしら、その方」

静は答えない。小春はカウンターから身を乗り出し、静の手元の画集に、自分の指をそっと重ねた。 温かい。洗い物をしていた小春の手の熱が、静の冷えた指先に伝播する。

「今の話を聞いてからこの絵を見ると、不思議とさっきより静かな色に見えますね。誰も聞いていなくても、月だけは見ている。見られているという事実だけで、救われる孤独もあるのかもしれません」

それは、小春なりの「金継ぎ」だった。交わらなかったと思われる一組の男女の感情を、彼女独自の解釈で柔らかに継ぎ合わせ、一つの景色として肯定してみせたのだ。

静は、ふっ、と短く笑った。この受容性。論理の刃が通じない、柔らかな大樹のような在り方。かつて自分が「月」になろうとして失敗した男とは違い、小春はこのブックカフェという箱の中で、静の「冷たさ」さえも、居心地の良い影として内包している。

「……今の私には、この店そのものが『月の裏側』みたいなものよ」

静は画集を閉じ、立ち上がった。足元の床板が、微かに軋む。

「裏側、ですか?」

「そう。自転と公転が同期して、永遠に地球からは見えない場所。誰かを観測する必要も、誰かから観測される必要もない。ただの暗闇の石塊いしくれに戻れる場所」

静は本を棚の隙間――ハイデガーの硬質な哲学書の隣――へと滑り込ませた。

「……まあ、君という随分とおせっかいな宇宙飛行士が、旗を立てにきているけれど」

「お茶、淹れ直しましょうか。今度はカフェインレスで」

小春は静の皮肉を無視し、日常のトーンで言って背を向ける。

静は答えず、ただ窓の外を見た。湖の水面には、何も映っていない。ただ、深くて暗い水が、そこにあるだけだった。

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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ブックカフェ「シズカ」シリーズ
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