これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
他の自治体の移動図書館では、到着時に音楽を流すことが多いと聞いた。♪ポーリュシカ・ポーレだったり、♪草競馬だったり、曲はいろいろらしい。確かに、この広いここあん村の空の下でも、音楽は効率的に「ロマコメ号」の到着を知らせてくれるはずだ。とても合理的なシステム。
選曲の基準はなんだろう。ロシア民謡とアメリカ民謡。NDC(日本十進分類法)で言えば、767.8(諸国民謡)……いや、違う。論点はそこではない。音がうるさくないか、私にとっての懸念はそこにある。
(私なら、巡回エリアの地理的特徴に合わせて音量レベルをデシベル単位で管理して……)
ああ、まただ。昔の私なら、そんな面倒なことより、子どもたちが駆け寄ってくるような明るい曲がいい、と単純に考えたはずなのに。今の私の思考は、いつの間にか効率と分類のことばかりだ。
私たちのロマコメ号は、音楽を流さない。その代わり、ボランティアさんと一緒に、一軒一軒、お声掛けして回る。
非効率だ。時間はかかるし、声も枯れる。私の完璧な運行計画は、いつもその「お声掛け」の時間によって、静かに侵食されていく。
でも、知っている。
音楽では、届かない声があることを。「あのとき」、全てのシステムが停止した中で、私たちを繋ぎとめたのは、泥だらけで名前を呼び合う、嗄れた声だけだった。
先日の巡回。ボランティアのエリコさんの、「あそこの奥のおばあちゃん、最近、足が遠のいてるみたい」というひと言。受付場所から一番遠い、小さな家。音楽は、あの家の奥までは届かない。
受付を同僚の美桜さんに任せて、エリコさんと二人で本を何冊か抱え、ぬかるむ小道を行く。
「こんにちは、図書館です」
「こっちよ」
裏に回ると、声の主は、窓からのんびり空を見上げていた。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭を思い出す。「幸福な家庭はどれもみな似かよったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸なものである」。音楽が元気に受付で来られる人々には平等に届くシステムなら、私たちの「声掛け」は、その人固有の来られない事情に、一歩だけ近づくための行為だ。
そこで交わされる、数分間の「おしゃべり」。それもまた、本と同じくらい、私たちが守るべき座標軸なのだ。非効率で、予測不能で、けれど確実な「声」の連鎖。それこそが、ここあん村の、脆くて、あたたかい防衛線なのだから。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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