これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
ここあん村の外に出るのは、あのこと以来、初めてのことだった。昨日立てた移動計画通りに、図書館を出て、駅から決まった路線の上を走る電車に乗る。それだけのことが、こんなにも落ち着かない。私の完璧な運行計画の外側。すべてが、私の管理できない領域だ。
出張。復興に関する会議。私の頭の中の索引カードには、『分類:業務出張』『ステータス:必須』と、乾いた文字が印字される。
ネット会議で十分ではないか。資料という「秩序」は、データで共有されれば、それで完結するはずだ。そう、思った。
会議室の空気は、図書館の閉架書庫とはまた違う、冷たい完璧さで満たされていた。整然と並んだパイプ椅子。配られた資料の紙はまだ熱をもっていた。プリントアウトされたばかりなのだろう。そして、会議が始まる。会議らしい会議。事実を過不足なく伝え、感情の入り込む隙間を排除した、無機質で、安全な言葉。私が日報を書くときに使うような言葉が飛び交う。
その、完璧なはずの秩序の中で、私はなぜか、息苦しさを覚えていた。
「この土地の復興の話し合いなら、この土地の言葉が飛び交うべきではないか」
会議の途中、地元の関係者だという男性がマイクを持ち、呟くように言った。
不規則発言。聞かれたことに答えていない。でも……。
「標準語だらけで、違和感をおぼえる」
男性はそう付け加えて、席に座った。最後の声は少し震えていた。
私の思考が、一瞬、停止した。私の築いた防衛線に、予測不能な石が投げ込まれた。私の分類棚には、「会議=標準語=効率的」とある。でも、彼の言葉は、その分類を、根底から揺さぶる。
――土地の言葉。
ふと、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を思い出した。水俣の人々が語る、あの土地の言葉。それは、標準語に「翻訳」された瞬間、その痛みも、苦しみも、魂の熱量さえも、すべてこぼれ落ちてしまう、唯一無二のものだった。
そうだ。アレの後、避難所となっていた図書館で、私たちが交わした言葉も、決して「標準語」ではなかったはずだ。
私は、ロマコメ号で「本」という秩序を届けているつもりでいた。でも、同時に、私はあの車で、たくさんの「声」を聞いていた。おばあちゃんたちの、日々の暮らしの、あたたかい、あの「ものがたり」。豊島区につながるここあん村にでさえ、この村特有の「土地の言葉」がある。
あの会議室に足りなかったのは、情報ではない。まさに、あの「土地の言葉」という、分類不能で、非効率で、けれど確かな「座標軸」だったんだ。
そうだ。ネット会議では、ダメだったのだ。この空気の重さも、あの人の声の震えも、ここに来なければわからなかった。
業務日報には、「有意義な知見を得た」とでも書くしかない。でも、私の心の書棚には、また一つ、行き場所の決まらない、けれどとても重く、大切な一冊が差し込まれた。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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