これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
ロマコメ号で仮設団地を回るようになって、どれくらい経っただろう。
「ありがとう」
「ありがたい」
巡回先では、本当にたくさん、この言葉をいただく。私の頭の中の分類棚では、『分類:活動評価』『ステータス:良好』のカードが、一番手前に並ぶ瞬間だ。
でも、時々、その言葉が、私の予測とは違う文脈で使われることに気づいた。会話の途中で、ふと、相手が「ありがとうねえ」「本当に、ありがたいよ」と、まるで合いの手を入れるかのように、その言葉を連発し始めるときがある。
私の完璧な運行計画には、「心に寄り添う」「まず『聞く』ことに徹する」と、マニュアルにも書かれているのに。
もしかしたら……私が、喋りすぎているのかもしれない。
こちらが何かを伝えよう、役に立とうと必死になるあまり、言葉が「押しつけ」になっている時。私の早口な「秩序」と、相手のゆったりとした「時間」のリズムが合わないから、相手は「ありがとう」という、一番安全で、当たり障りのない言葉でしか、応えられなくなっている。
ふと、トゥルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』を思い出した。あの物語の主人公、ホリー・ゴライトリー。彼女は、自分の本心(=本名のルラメイとしての自分)を隠すために、マシンガンのように喋り続け、相手を煙に巻く。私も、同じことをしているのではないか。「支援する司書」という役割を演じることに必死で、一方的に言葉を投げかけ、相手を私の「おしゃべり」の観客にしてしまっているとしたら。
相手の「ありがとう」の連発は、彼女たちの優しさであり、同時に、私の押しつけがましさに対する、静かな防衛線なのかもしれない。私が「秩序」だと思ってやっていたことが、相手にとっては「混沌」になっているなんて。正しさの迷惑……。傲慢。
(昔の私なら、「あ、ごめんなさい、喋りすぎました!」って、素直に頭をかいて、一緒に笑えたのに……)
今の私には、その「ありがとう」の裏にある、分類不能な感情の重さを、ただ受け止めることしかできない。
この気づきも、業務日報には書けない。高島副館長は、「それは主観的な反省だ」と言うだろう。聞かなければ。分類しようとする前に、まず、ただ、聞く。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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