移動図書館日記(59)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

湖畔。約束の時間よりも、ずいぶんと早く着いてしまった。私の体内時計は、「余裕」が欲しくて、癖のある動き方をする。遅れるストレスで痛みを感じないようにと。

車のエンジンを切って外に出ると、肌を刺すような風。もう、ストーブの火が恋しくなる季節だ。

目の前に広がる、ここあん湖。かつて大学のキャンパスがあり、完璧な区画整理とアカデミックな規律が存在していた場所。今は、ただ静かに水を湛えている。

ぼんやりと水面を眺めながら、先日、ここで出会った男性の言葉がふっと浮かぶ。

「そこ、俺んちの玄関だったところ。もうノックはいらないからね」

彼は、何もない水面の一点を指差して、少しだけ口の端を上げてそう言った。

――ノックはいらない。

その言葉を聞いた時、私の頭の中の分類棚が一瞬、エラーを起こした。「玄関」とは、内と外を隔てる境界線であり、守るべき防衛線の象徴だ。けれど、彼の言葉は、その堅固な扉を、軽やかな冗談で溶かしてしまった。悲壮感ではなく、どこか突き抜けたような明るさ。

イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』が頭をよぎる。マルコ・ポーロが皇帝に語る、無数の都市の姿。都市とは、石や木でできた形あるものだけではない。目に見えない関係性の糸や、記憶の集積でできているのだと。

今日、ひとりでその場所を探そうとしたけれど、どうしても見つけられなかった。湖面には目印も、座標軸もない。水面の下にあるはずの、無数の「玄関」。もう誰もノックする必要のない、開かれた場所。不思議と焦燥感はなかった。

寒さでかじかんだ指先をこすり合わせながら、私はただ、その「見えない玄関」があるはずのあたりを、もう一度だけ眺めた。

風の音だけが、静かに湖面を渡っていった。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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