移動図書館日記(67)

これは、日記という名を借りた私の記憶。 

某月某日

ボストー区のさらに奥、新しく造成されたばかりの区画へ、ロマコメ号は初めてタイヤを踏み入れた。真新しいアスファルトは黒々としていて、タイヤが転がる音がいつもより低い。地図上では空白だった場所に、新しい「生活」が張り付き始めている。

「ここ、停めても大丈夫ですかね?」

ドライバーのUさんが、バックミラー越しに慎重に尋ねる。私と同僚の鈴木美桜さんが頷くと、ロマコメ号は「プシュー」と少し大げさな息を吐いて、集会所の前の砂利に停車した。

初めての場所。警戒心と好奇心が混ざり合った視線が、カーテンの隙間からこちらを覗いているのがわかる。オーニングを広げ、コンテナを積み下ろすと、ぽつり、ぽつりと人が集まり始めた。

その中に、買い物袋を提げた、少し背中の丸まった女性がいた。書架の前を行ったり来たりしているけれど、どの本にも手を伸ばさない。迷っているというより、何かを恐れているような手つきだった。

「何か、お探しですか?」

私が声をかけると、彼女は少し驚いたように肩を跳ねさせ、それから、恥ずかしそうに口を開いた。

「あの……人が、人が死なないミステリー、ないかしら」

その瞬間、私の頭の中の索引カードが、カタカタと音を立てて検索を始める。 『NDC 913.6(日本文学・小説)』『ジャンル:ミステリー』 定義上、ミステリーとは謎解きだ。けれど、私の脳内データベースにある「名作」の多くには、セットのように「死体」が転がっている。密室、孤島、連続殺人。それが「謎」の骨格だからだ。

でも、彼女の求めているものは、それじゃない。 ――あのこと。 あの日、私たちの日常という「秩序」は、物理的な暴力によって破壊された。瓦礫、サイレン、土煙。現実は、あまりにも唐突で、解決編のない理不尽な死で溢れていた。 彼女は、謎解きという「知的な秩序の回復」を楽しみたいのだ。けれど、その過程で、血の匂いや、誰かがいなくなる喪失感を味わうことには、もう耐えられないのかもしれない。 彼女が欲しいのは、パズルのピースがカチリとハマるあの快感だけ。痛みは、もう十分だから。

ふと、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』の中にある一編を思い出した。あの名探偵が扱った事件の中には、誰も血を流さず、ただ一枚の写真の行方を追うだけの物語があったはずだ。謎は、必ずしも死を必要としない。日常のボタンの掛け違いを、そっと元に戻すだけでも、それは立派なドラマになる。

私は、コンテナの奥にある「日常の謎」を集めたコーナーへ手を伸ばした。選んだのは、ある女性作家の書いた、連作短編集だ。誰も殺されない。派手なトリックもない。ただ、日常の中でふと生じた「なぜ」を、丁寧な会話で解きほぐしていくだけの物語。 誰かが誰かを想うあまりについてしまった、優しい嘘の謎。

表紙は、多くの人の手に触れられたせいで、端が少し白く毛羽立っている。

「これなら、誰もいなくなりませんよ。ただ、ちょっとした探し物をするお話です」

彼女に手渡すと、その重さを確かめるように、両手でしっかりと包み込んだ。

「よかった。……ドキドキするのは、もう、お腹いっぱいだから」

彼女はそう言って、目尻に深い皺を寄せて笑った。その笑顔を見て、私の胸の奥で、強張っていた何かが解ける音がした。安心という名のエンターテインメント。私の分類棚に、新しい付箋が貼られる。

帰り際、彼女は「ありがとね、ちなっちゃん」と小さく手を振った。初めての方。私のネームプレートを見て名前をおぼえたのか、美桜さんとの会話が耳に入ったのかもしれない。私は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、空になったコンテナの蓋を、パチン、と閉じた。乾いた音が、新しい街の夕暮れに吸い込まれていった。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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