移動図書館日記(77)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

スーパーの冷気は、図書館の書庫のものとは種類が違う。もっと生活につながってる感じがある。野菜売り場の照明の下、私はきゅうりの山と向き合っていた。色が濃く、太さが均一で、表面のいぼが痛いくらいに尖っているもの。それを選び出す作業は、私は集中していた。頭の中では、すでに分類が始まっている。

『産地:県内』『鮮度:A』『用途:サラダ』。

あるいは浅漬けもいいか。

「ちなっちゃん、アタック!」

ただ、その思考は、腰への物理的な衝撃で思い切り破られた。よろめいて振り返ると、いつものやんちゃな笑顔。

――移動図書館の「常連」、ケンタくん。

「こら、お店の中で走らないの!」

追いかけてきたお母さんが、私を見て「あっ」と口元を押さえる。私は慌てて、無防備だった表情筋を引き締め、図書館司書としての「穏やかな笑顔」を貼り付けようとした。今日は休日。仕事とは違う、ただの菜箸千夏として紛れ込んでいたはずなのに。

「すみません、お休みですよね」と恐縮するお母さんに、「いえいえ」と手を振る。

「よく分かりましたね。私、気配を消していたつもりだったんですけど」

冗談めかして言うと、お母さんは楽しそうに笑った。

「分かりますよ。千夏ちゃんは、千夏ちゃんですもの。それに、きゅうり一本選ぶその真剣な目、あの子に絵本を選んでくれる時の顔と、同じでしたよ」

少しずっこけるポーズを作りながら、お母さんの言葉に、手に持っていたきゅうりが、急に重さを増した気がした。オンとオフ。仕事と私生活。私はそれを、しっかり切り分けているつもりだった。けれど、彼女の目に、私が引いた境界線なんて見えるはずもなく。きゅうりも、本も、私の「選びたい」という点で、同じ熱が出ていたのかも。

ふと、五味太郎さんの絵本『きんぎょがにげた』を思い出した。金魚鉢から逃げ出したきんぎょは、カーテンの模様になったり、花になったりして隠れるけれど、最後には必ず子どもたちの指先に見つけられてしまう。今の私は、あのきんぎょだ。どんなに日常の風景に溶け込んだつもりでも、私という輪郭は、あたたかい眼差しによって簡単に見つけ出されてしまう。

「そのきゅうり、食べるの?」

ケンタくんが、私の手元を覗き込む。

「うん、一番強そうなやつを選んだよ」

私が答えると、彼は満足そうに笑って、お母さんの手を取り、お菓子売り場の方へ次の「アタック」に向かった。 私は、選び抜いた一本をカゴに入れた。境界線なんて、なくていいのかもしれない。どこにいても見つけてくれる人がいるなら、それは逃げ場がないのではなく、帰る場所があるということなのだから。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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