これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
図書館のカウンターにやってきた中野楓子さんは、いつも通り、雨上がりの太陽みたいな明るさを連れてきた。彼女の手に握られていたのは、島根の湖の夕暮れが描かれた絵葉書だった。遠野で暮らしているお母さんの文さんが、いま、島根を旅しているのだという。
「『民話の里から、神話の里に来てます』だって、のんきだよね、うちの母さんは」
楓子さんはそう言って、絵葉書を私に手渡した。郵便局の消印が、遠い場所から時間を運んできたみたいで、私はその丸いスタンプのまわりを、無意識に指先でなぞっていた。
「お母さんと離れてて、寂しくない?」
自分でも驚くような言葉が、口をついて出た。普段なら、司書としての「正しい距離」を保とうとするのに、楓子さんの屈託のない瞳を前にすると、私の心の鍵は、いとも簡単に外れてしまう。聞いてすぐに、踏み込みすぎたと後悔したけれど。
楓子さんは、私から絵葉書を受け取ると、ケロッとして笑った。
「あの人が、あやねおばあちゃんに私を預けて、というか押し付けて? 東北に行ったりしてたから、もう慣れっこ」
彼女の言葉の中に、「あのこと」よりもずっと前の、別の大きなできごとの影が少しだけ混じる。でも、それは湿った悲しみではなくて、ずっと大切に使い込まれた道具のような、静かな響きを持っていた。
「同じ空の下でつながってるって、お母さんが言ってたんだ。当時は何を言ってるんだ、この人はって思ったけど、いまは、なんとなくわかる気がして」
――空の下でつながっている。
私の頭の中に一冊の本が浮かんだ。ケネス・グレーアムの『たのしい川べ ヒキガエルの冒険』。離れた場所にいても、流れる水や渡る風が、誰かの気配を届けてくれる。そんな穏やかな確信が、楓子さんがひらひらさせる絵葉書の中にも宿っているように見えた。
私たちのロマコメ号も、この村の空の下を走っている。誰かの寂しさを、誰かの楽しみと、見えない糸で結ぶために。
いつか、私も遠野へ行ってみたい。柳の葉が揺れる川の流れや、古い物語が息づくあの場所で、楓子さんのお母さんの文さんが見ている空を、私も見上げてみたいと思った。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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