これは、日記という名を借りた私の記憶。
三月。窓を少しだけ開けると、冬の名残を含んだ冷たい風が、本館の真新しいカウンターをさっとなでていった。外では、児童担当の北条くんが子どもたちを追いかけて、春の光のような明るい声を響かせている。その様子をまぶしく眺めながら、私はロマコメ号の準備のために立ち上がった。
午後の巡回先は、克枯地区の集会所。中に入ると、坂上さんが地元の人たちと楽しそうに笑いながら、大きなポットでお茶を用意してくれていた。私は長机にいつものスタンプや名簿を並べ、自分の居場所を整える。
小柄なおばあちゃんが、三冊の本を抱えてやってきた。使い込まれた布の袋から、一冊ずつ、宝物を取り出すように本を出して机に置く。「いつもありがとうね」と笑う彼女の指先は、冷たい水で洗ったばかりなのか、少し赤らんで、しっとりと濡れていた。
貸し出しの手続きを終えた彼女が、帰りがけにふと足を止めた。視線の先には、誰かが持ち寄った古いお雛様。少しだけ衣装の色が落ち、顔立ちも穏やかに古びている。おばあちゃんは、そのお人形たちの前で足を揃え、静かに目を閉じた。
胸の前で、節の目立つ両手をそっと合わせる。カーディガンについた小さな毛玉が、ストーブの熱でゆらゆらと揺れていた。彼女のまあるい背中を見ていると、私の喉の奥に、言葉にならないあたたかい塊が降りてくるのを感じた。
この村に暮らす人たちの沈黙には、私たちが決して土足で踏み込めない、深い湖のような時間がたまっている。坂上さんが淹れてくれたお茶の香りが、しんとした集会所の隅っこまで広がっていく。
ふと、安房直子さんの『ひぐれのお客』を思い出した。どこか懐かしくて、ふしぎで、でもすぐそばにある日常を慈しむような、あの物語の匂い。あのお雛様も、おばあちゃんの祈りを、春の雨のような優しさで受け止めているのかもしれない。
しばらくして、彼女はゆっくりと目を開け、もう一度だけ私に小さく会釈をして、光の射す出口へと歩いていった。
私は、日報の白い欄に「貸出三冊」という数字だけを書き入れた。分類の棚には決して収まらない、あの柔らかな背中の重みを、胸の奥の座標にそっと書き留めながら。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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