これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
少しずつ春の気配が混じり始めた風が、ロマコメ号の跳ね上げたハッチを優しく揺らしている。
カウンターに置かれた子どもたちの作文集『ここあん』。その表紙をなぞる、節くれだった指先がわずかに震えていた。
「これ、読んでみようかしら」
顔を上げたその女性の瞳には、ためらいが滲んでいる。彼女にとっての「アレ」は、化物に追いかけられるような恐怖とともに、車を走らせて逃げた記憶と固く結びついているのだという。
「思い出しちゃうかもね。私には、まだ早いかしら」
彼女が本を胸に抱き寄せるようにしたとき、ウールのごわごわしたカーディガンの袖が、カウンターの角に擦れて小さな音を立てた。その音は、彼女の心の奥にある、まだ乾ききっていない傷口をそっと守ろうとしているようでもあった。
『ここあん』を棚に戻そうとした彼女の隣にいたお友だちの声が聞こえてきた。
「何があったか、本当のことを知りたいのよね。みんなは知りたくないのかもしれないけれど、私は知りたい。あの霧についても」
怒っているのではない。でも、少しだけ強い声が、作文集をはさんで、ふたりの間に重たい石を投げ込むように落ちた。
ここあん村を包んだ、あの得体の知れない霧。村の誰もが、そして私も、どこかで見ないふりをして、喉の奥に押し込んできた話題だ。
「流れがわかるような、写真入りの本。そういうのは、ないのかしら」
彼女の問いかけに、私の指先が止まる。 実を言えば、ロマコメ号の棚には、あの霧について詳しく書かれた資料をまだ一冊も並べていない。「誰かを傷つけてしまうかもしれない」という、私自身の勝手な判断が、棚の空洞を作っていたのだ。けれど、それは「知る自由」を保障するという、司書としての原点から、いつの間にか逸れていたのかもしれない。
頭の中に、一冊の本が浮かぶ。ナン・シェパードの『いきている山』。霧のなかで自分を見失い、それでも山の真の姿に触れようとする、静かな覚悟の記録。
お友だちの彼女が求めているのは、目を背けるための優しさではなく、足元を照らすための確かな事実なのだ。
「次までには、探しておきますね」
私の言葉に、彼女は少しだけ口元を緩め、『ここあん』を隣の女性から受け取って、これを貸してほしいと受付にやってきた。
「読んだら、感想を聞かせて」
最初にその本を手に取っていた女性の声がかかる。
本館に戻ったら、アーカイブ専門員の芳野さんに相談してみよう。彼女なら、バラバラになった記録の断片を、一冊の「真実」として繋ぎ合わせてくれるはずだ。
夕暮れの空が、少しずつ霧のような灰色に溶けていく。 私たちは、誰かの痛みを代わりに背負うことはできない。けれど、その痛みの隣に立って、一緒にページをめくることはできるはずだと、自分に言い聞かせる。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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