これは、日記という名を借りた私の記憶。
春を待つ風が少しだけ冷たいけれど、ひだまりの中で昼寝をしたら気持ちよさそうな、静かな午後。
図書館車のハッチに描かれた「みちくさ」というひらがな文字。その柔らかな凹凸を愛おしそうになぞる、おかあさんの指先。
「ここで本を借りると、ついついやることほったらかしで読んじゃうのよね」
そう言って、いたずらっぽく笑う彼女と目が合った。声に出した言葉のさらに奥にある、もっと深くて、名前のつかない「何か」を、視線だけで静かに手渡されたような気がした。
――おかあさんのみちくさ。
「いま、開けますね」
ハッチをゆっくり押し上げる。私の様子を、おかあさんが静かに見ている。もう一度目が会う。口をきゅっと結んだおかあさんの頬に小さなくぼみができた。それは、耐えるとかがんばるとかとは違う、ただ、気持ちがほどけ過ぎないように一度だけ結び直すような、ささやかで愛らしい「しるし」に見えた。彼女の中の時計の針が、別の時間を刻み始めたのがわかる。
夕飯の支度や賑やかな生活の音で、このあといっぱいになっていく、少し前。このひとときは、「みちくさ」のままでいい。
遠くで子どもたちが駆け回る高い声が、栞のように午後の静寂から飛び出していた。そういえば、以前、学校帰りの子どもたちも、この「みちくさ」という言葉に興味をひかれていたな。みんな元気でいるだろうか?
ミヒャエル・エンデの『モモ』の表紙を思い浮かべる。時間を効率よく使おうとして、本当の時間を失ってしまう人々。でも、ここにはいま、自分自身の時間を自分の手に取り戻した、おかあさんの指先がある。
誰かにとっての「みちくさ」が、明日を生きるための小さな綴じ目になる。その瞬間に立ち会えたなら、私の今日という一日も特別なものになる。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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