これは、日記という名を借りた私の記憶。
仙台での図書館関連の会議が決まったとき、私の頭の片隅に、ひとつの地名がふわりと浮かんだ。
岩手県遠野市。
路線図をたどれば、仙台から遠野は決して「ついで」に寄れるような距離ではない。新幹線を乗り継ぎ、さらにローカル線に揺られる必要がある。
けれど、もしこの出張という「タイミング」を逃せば、私はきっと「遠いから」とか「忙しいから」といった、もっともらしい理由を見つけて、わざわざそこへ向かう気持ちに重たい蓋をしてしまうだろう。人間は、現状維持のほうがずっと楽にできている。
遠野には、中野文さんが暮らしている。
娘の楓子さんを通じて、本館のカウンターで言葉を交わした文さんは、あのことよりも前、移動図書館のボランティアとして活動していた人だ。ロマコメ号で村を回り、人々と本を介して向き合っている今の私にとって、過去に同じような場に立ち、人々の声を聞いていた彼女の存在はずっと気にかかっていた。
彼女がどんな景色を見て、どんなふうに本を手渡していたのか。それを聞いてみたいと思うのは、ごく自然な心の動きだった。
その日の午後、私は2階の副館長室へ向かった。
ガラス張りの部屋でパソコンに向かっていた真木まきさんに、仙台出張のあとに有給休暇を繋げて、遠野へ行きたいと伝えた。
まきさんはキーボードを叩く手を止め、ほんの少しだけ目を丸くした。私が自分の個人的な目的のために、こうして予定を組んで相談を持ちかけること自体が、珍しかったのだろう。
彼女は余計なことは何も聞かなかった。ただ、口元をふっと緩めて、どこか嬉しそうな、やわらかな表情になった。
「有給、たっぷり溜まってるでしょう。いってらっしゃい」
まきさんは引き出しから素早く印鑑を取り出し、朱肉の蓋を開けて待ち構えた。しかし、まずは打診だけのつもりだった私の手元には、肝心の申請書がない。
「あら、用紙は? 早く書いて持ってらっしゃい」
行き場を失って宙に浮いた印鑑を手に、まきさんは可笑しそうに私を急かした。
私が数日不在にしても、本館もロマコメ号も、今のスタッフたちなら何の問題もなく回していける。まきさんのその滑らかな手つきを見て、私はそんな当たり前の信頼に改めて気づかされた。
出張の準備を進めながら、ふと宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のページを開いてみた。ジョバンニが銀河を巡る列車に乗り込んだのも、綿密な計画があったわけではなく、ただその日、その時に手の中に入ってきた切符という名の「タイミング」に従ったからなのだ。
図書館に採用されたときに研修でもらったまま手つかずになっていた申請書をファイルから取り出す。私は少しだけ、遠野へ向かう列車に乗る日を待ち遠しく思っている。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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