第10話 3つの正しさ

「……では、始める」

黒崎部長が、まるでこれから不毛な砂漠を横断するかのような、憂鬱を極めた声で告げた。

机の上には、僕が書いた『コンクリートの涙』の原稿と、天野光さんが持参したスケッチブックが並んでいる。文芸部の長い歴史の中で、この二つが同じテーブルに載る日が来るとは、誰も予測できなかっただろう。

「議題は、この駄文のクライマックスシーンについてだ。バスケ部、君が描きたいという挿絵のイメージを提示してみろ。ただし、君の言う『胸がぎゅーってなった』などという、主観的で感傷的な感想は聞くに値しない。その生理現象が、なぜ絵という新たな解釈を加えるに値するのか。私にも理解できるよう、言語化して説明してみせろ」

部長の言葉は相変わらず辛辣だが、その視線は天野さんの手元――スケッチブックに注がれていた。拒絶しながらも、どこかで彼女の出方を窺っている。それは、僕の観測によれば、純粋な好奇心と、自身の美学を脅かしかねない異物への警戒心が、50対50で混じり合った反応だった。

「は、はい!」

天野さんは、緊張した面持ちでスケッチブックのページをめくった。そこに描かれていたのは、鉛筆によるラフスケッチ。降りしきる雨の中、一人の少年が天を仰いでいる。その頬を、一筋の雫が伝っていた。

「この、主人公が……恋人に裏切られたことを知って、雨の中で立ち尽くすシーンです。すごく切なくて、胸が苦しくなったから……主人公の表情を大きく描いて、この頬を伝うのが、雨なのか涙なのか分からないけど、それがキラキラって光る感じにしたいなって……」

彼女の言葉は、熱を帯びていた。それは、物語の登場人物に心から寄り添い、その感情を共有した者の言葉だった。僕の書いた拙い文章が、確かに彼女の心を動かしたという事実。その事実に、僕の胸がわずかに熱くなる。

だが、その熱は、黒崎部長が発した絶対零度の一言によって、瞬時に凍りついた。

「却下だ」

「え……」

「安直にも程がある。涙を『キラキラ』だと? 君の頭の中は、少女漫画の背景に咲き乱れる花でできているのか? いや、あれにも意味はある。だが、この主人公が抱いている感情は、そんな感傷的なものではない。男の内面で渦巻いているのは、もっと乾いて、ひび割れた絶望だ。世界そのものに裏切られた人間の、声にならない叫びだ。それを、そんなありふれたお涙頂戴の絵で表現されては、作品の本質が汚損される」

部長は、すっ、と人差し指を立てた。

「もしこの場面を絵にするというのなら、描くべきは彼の表情ではない。彼が握りしめた、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめた、その『拳』だ。言葉にならない怒りと、行き場のない悲しみの全てが凝縮された、その身体の末端こそが、彼の魂の輪郭を最も雄弁に物語る」

魂の輪郭。黒崎部長らしい、どこまでも文学的な要求だ。

天野さんは、その圧倒的な言葉の力に気圧され、何も言い返せずに俯いてしまった。

僕も、反論できなかった。部長の言うことは、確かに一つの真理だ。僕が描きたかったのも、安っぽい感傷ではなかったはずだ。だが、天野さんの「キラキラ」という表現も、読者の共感を呼ぶという点では、間違いなく力を持っている。

二つの「正しさ」が衝突し、部室の空気は再び張り詰める。

その、均衡を破ったのは、やはり三人目の部員だった。

「……二人とも、議論の前提が、根本的に間違っている」

これまで会話に加わることなく、分厚い建築雑誌を眺めていた堂島が、ページをめくる手を止め、静かに口を開いた。

「なんだと、堂島?」

部長が、わずかに苛立ちの滲む声で問う。

「天野さんの言う『キラキラ光る涙』。まず、このシーンの天候は『小雨』と描写されている。気象庁の定義によれば、降水量は一時間あたり3ミリ未満。光源は、主人公の背後にある街灯のみだ。その照度と入射角、そして涙の表面張力による反射率を計算すると、涙の軌跡が『キラキラ』という擬態語で表現できるほどの輝度を持つことは、物理的にあり得ない」

「な……」

天野さんが、信じられないものを見るような目で堂島を見ている。

「次に、黒崎部長の言う『爪が食い込んだ拳』。これも、不可能だ」

「なに?」

今度は、部長の眉が鋭く吊り上がった。

「黒崎部長が要求しているのは、単に手で袋を持つことではない。『爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめた拳』という、極度の身体的緊張を伴う行為だ。だが、主人公の両手はコンビニのビニール袋で塞がっている。手提げ部分を握るだけでは、指が曲がるだけであり、定義上『拳』にはならない。さりとて、卵のパックが入った袋本体を握りしめれば、中身は確実に破損する。どちらにせよ、部長が要求する『絶望を体現する拳』という情景は、この物理的条件下では成立しない」

「…………」

黒崎部長は、珍しく言葉を失っていた。

彼女が至上とする「魂」の表現は、堂島が提示した「コンビニ袋と卵」という、あまりにも日常的な、そして絶対的な物理法則の前に、あっさりと無力化されてしまった。

部室は、完全な沈黙に支配された。

天野さんの「共感」。黒崎部長の「魂」。堂島の「物理」。

三者三様の、決して交わることのない「正しさ」。

僕の書いた物語は、この三つの座標軸の中心で、完全に引き裂かれ、身動きが取れなくなっていた。

どうすればいい?

誰かの意見を切り捨てれば、物語は歪む。だが、全てを取り入れようとすれば、矛盾して崩れ落ちる。思考が、袋小路に迷い込む。

その時、僕の脳裏で、あの感覚が蘇った。

登場人物を、物語を、一度バラバラに分解し、その構造を再構築する、僕の「異常性」。

天野さんの「キラキラ」は、読者の感情を誘導するための、最も分かりやすい記号だ。

黒崎部長の「拳」は、キャラクターの内面を象徴させるための、純度の高い文学的表現だ。

堂島の「物理法則」は、この物語世界を支える、決して揺らいではいけないルールだ。

レイヤーが、違う。

それぞれが、それぞれの階層で、完璧に正しい。

ならば――。

「……あの」

僕は、おずおずと口を開いた。

三つの全く異なる光を宿した瞳が、一斉に僕に突き刺さる。

「このシーン、主人公は、涙を流さない……というのは、どうでしょう?」

「「「……は?」」」

三人の声が、奇妙にハモった。

「涙も流さず、拳も握らない。感情を、直接的には何も表現しない。……ただ、雨に濡れたアスファルトに、彼が持っていたコンビニの袋から滑り落ちた、卵が一つだけ、割れている」

僕は、頭の中に浮かんだ情景を、必死に言葉にする。

「主人公は、何も言わずに、ただその割れた黄身を、じっと見つめている。……それだけを、描写するんです。読者がどう感じるかは、もう、読者に委ねてしまう。……というのは、ダメ、でしょうか」

僕が言い終わると、部室は再び、先ほどとは質の違う、深い沈黙に包まれた。

最初に反応したのは、黒崎部長だった。

彼女は、僕の顔を値踏みするように、じっと見つめていたが、やがて、その唇の端が、ほんのコンマ数ミリだけ、吊り上がったように見えた。

「……ほう。凡俗にしては、面白いことを考える」

隣では、天野さんが「割れた、卵……?」と、まだ意味を掴みかねて首を傾げている。

そして、部屋の隅の堂島は。

僕の提案を聞いた後、無言で、自身のノートに何かを図面のようなものを、静かに書き留めていた。

僕の日常という名の物語は、この三つの奇妙な正しさに引き裂かれながらも、まだ、終わることを許してはくれないようだった。

(第11話に続く)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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ここあん高校文芸部
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