千早亭小倉・作
「今日は、完璧な『カンガルー日和』日和ね」
彼女はそう言って、窓際のテーブルに置かれた古い文庫本の表紙を指先でなぞった。
——村上春樹の『カンガルー日和』。
僕たちはその本を一緒に読むのに相応しい朝が来るのを、それこそカンガルーの誕生を待つ飼育員のような忍耐強さで待ち続けていたのだ。
窓の外には、いかにもひと月ぶんの停滞を洗い流したような、非の打ち所のない一月の月曜日の空が広がっていた。
「やっと読めるわけだ」と僕は言った。
「ええ、ようやくその日が来たのよ。まるで最初から決まっていたみたいに」
僕はコーヒーをひと口飲み、ページを捲り始めた。彼女は僕の隣で、物語の断片を拾い上げるように静かに文字を追っている。
しかし、読み進めるうちに、僕の頭の中にはいくつかの小さなしるし——星印のような、ささやかな違和感——が浮かび上がってきた。
「ねえ」と僕は彼女に問いかけた。「この語り手の彼、ちょっと記憶が混乱してないかな? 最初の方では、カンガルーを見に行くのに相応しい朝を毎日待ち続けていたって書いている。雨が降ったり、彼女の虫歯が痛んだり、区役所に行ったりで、その日はなかなか来ない。それなのに数行後には、この一ヶ月間いったい何をしていたのか思い出せないなんて言っているんだ。新聞の集金人が来るまで一ヶ月が過ぎたことにさえ気づかなかったなんて。毎朝カーテンを開けて天気をチェックしていたはずなのに」
彼女は窓の外を流れる雲を眺めるような目つきで、僕を見た。
「記憶なんて、そんなものじゃないかしら。強い目的意識と、空虚な空白は、同じコップの中に同居できるのよ。ちょうど、このコーヒーの中に砂糖と苦味が溶け合っているみたいに」
「それはそうかもしれないけど」と僕は食い下がった。「でも、ようやく動物園に着いた彼らが、柵の中を見て即座に『雄が一匹、雌が二匹』って見分けるのはどうだろう。説明には、雌二匹は同じような体つきで、同じような顔つきだって書いてある。初対面のカンガルーの性別が、個体の大きさだけでそんなに正確にわかるものかな。それも、ただ眺めているだけで」
「それは、『僕』がそうであると決めたからよ」と彼女は耳の後ろの髪をかき上げながら言った。「世界には、説明しなくても最初からラベルが貼られているものがいくつかあるの。あなただって、私があなたを好きだってことを、わざわざ名札を見なくても知っているでしょう?」
僕はそれについては黙ることにした。議論をして彼女に勝てる見込みがないことは、僕にも経験的にわかっていたからだ。物語の中の彼も、同じようなことを書いていた。僕は何でもひとりで決めていて、同時に、何もひとりでは決められないのだ。やれやれ。
だが、『カンガルー日和』を読み進めると、物語の中の「彼女」の言動がますます僕を困惑させた。
「この女の子、少し極端じゃないかな」と僕は小声で言った。「さっきまで『もう赤ん坊じゃない、お母さんの袋に入ってない』ってあんなにがっかりしていたのに、次の瞬間には、カンガルーが速く走るのは人間がブーメランで殺して食べるからだなんていう彼の出鱈目な説明に納得して、さらにはドラえもんのポケットは胎内回帰願望かしら、なんて言い出す。目の前のカンガルーを観察しているのか、自分の頭の中の迷路を歩いているのか、よくわからなくなってくるよ」
彼女は僕のため息を追い払うように、僕の肩に頭を預け、クスクスと笑った。
「彼女はただ、つながりを探しているのよ。カンガルーと、ドラえもんと、自分自身の場所とのあいだにある、目に見えない糸をね。狂気と哲学のあいだには、とても細い隙間しかないの。そして、その隙間こそが、カンガルー日和には必要なのよ」
物語の最後、母親カンガルーの袋の中に赤ん坊が収まったのを見て、彼らは満足して柵を立ち去る。
僕は本を閉じ、最後の一文を反芻した。
「さっきまでコーラを飲んでいたのに、最後にはビールを飲もうって誘っている。お腹の中が水分でタプタプになりそうだ」
彼女は立ち上がり、冷蔵庫の方へと歩き出した。
「いいじゃない。完璧な朝のあとには、完璧な喉の渇きがやってくるものよ。それがコーラであっても、ビールであっても、あるいはもっと別のものであっても」
彼女が冷蔵庫を開ける小さな音が、静かな部屋に響いた。
結局、僕の抱いたいくつかの疑問は、解決されることもなく、どこか遠くの草原に放たれたカンガルーのように、どこかへ跳ね去ってしまった。
窓の外では、月曜日の太陽が相変わらず静かに、そして誰に遠慮することもなく、僕たちの部屋を照らし続けていた。
(了)
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