これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
昨日のロマコメ号の運行記録。
巡回先:「チ」区、第四公園前。貸出冊数:68冊。特記事項:なし。
私の書く日報は、いつもこんなふうに乾いている。けれど、その行間に挟まっている、記録されない出来事のほうが、よほど私の心を揺さぶる。
「チ」区の公園は、午後の日差しが穏やかで、時間がゆっくり流れている場所。私の心の書棚では、「のどかな日常」という分類棚の一番見やすい段に置かれている。ただ、時々その静寂を破る訪問者たちがいる。近所の小中学生たちだ。彼らは本の背表紙をぶつけ合ってチャンバラごっこを始めようとしたり、返却ボックスをバスケットゴールに見立てて本を投げ込もうとしたりする。そのたびに私の心臓は跳ね上がるけれど、不思議と大きな声で叱ることはできない。彼らの有り余る生命力は、私の築いた静かな秩序の外側にあって、眩しすぎる。
(昔の私なら、「こらー!」って、鬼の形相で追いかけ回して、最後には一緒に笑っていたんだろうな……)
そんなことを考えていると、カウンターの隅で、いつも静かに本を読んでいるおかあさん(スミさん)が、ハンカチで目頭を押さえているのが見えた。慌てて駆け寄るでもなく、かといって見ないふりもできず、私はただ、スミさんの姿を目の端に収めながら、貸出用のバーコードリーダーを固く握りしめているだけだった。
最近、こういう場面が増えた気がする。ロマコメ号から数メートルの限られた空間で、ふとした瞬間にこぼれ落ちる、誰かの涙。その涙は、大声で泣き叫ぶようなものではなく、湖の底から湧き上がる泡のように、静かで、誰にも気づかれないことを望んでいるような涙だ。
スミさんが借りていったのは、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』。あの物語の中に流れる、喪失と再生の、静かで優しい時間。天野さんの涙は、あの物語の世界とどこかで繋がるかもしれない。私は、スミさんの涙の理由を尋ねることはしない。それは司書として、というより、私という人間が立てた、他人との間の心許ない防衛線だ。私にできるのは、ただ、その人が求める物語を、そっと手渡すことだけ。
暴れる子供たちの、秩序なきエネルギー。スミさんの、静かで分類不能な涙。
この両極端な出来事を、私は自分の心の書棚のどこに収めればいいのだろう。混沌と静寂。どちらも、ここあん村の、そして人の心の中にある、紛れもない現実。離れているようでいて、実は底でつながっているのかもしれない。ほんとうのことは私にはわからない。
「かんじんなことは、目に見えないものだ」
私の大好きな一冊のなかの言葉。
ロマコメ号は、そんな分類不能なものをたくさん詰め込んで、今日も走っていく。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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