これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
東風公園の仮設団地。集会所の前でロマコメ号を停めると、中から、いつもより大きな、湯気の立つようなざわめきが聞こえてきた。「お茶っこ」の最中だ。
私の運行計画では、ここは「静かに本を選ぶ場所」。でも、現実は違う。お茶の匂いと、いくつものおしゃべりが混じり合った、柔らかい混沌。私の背筋が、無意識に少し強張る。
中を覗くと、輪になって座る人たち。その中心に、ツアキさんがいた。彼女は、いつもは少し影があるのに、今日は明るく笑っている。 その向かいの女性が「ツアキさん、パッチワークがそんなに得意だったなんて、全然知らなかった」と驚いたように言った。すると、隣に座っていた別の方が、自分のことのように誇らしげに「そうよ、ツアキさんはこんなに(と、両手を大きく広げて)大きいのを作るのよ」と続く。
ツアキさんは、少し照れくさそうに「そんな……」と俯いたけれど、向かいの女性が「ねえ、今度教えて。わたし、興味あったのよ」と身を乗り出した。
その瞬間、はっとした。 明るく見えるこの団地でも、「顔は知っている」というだけで、互いの名前や、ましてや趣味なんて、ほとんど知られていない。「アレ」のあと、急ごしらえで作られたこの場所では、人々はまだ、互いに「分類未了」のまま、隣り合って暮らしている。その事実に、私の胸が少しざわつく。
ふと、L.M.モンゴメリの『赤毛のアン』のお茶会を思い出した。アンが、ダイアナを精一杯もてなそうとした、あのお茶会。あれは、二人の友情を確かめ、アヴォンリーというコミュニティの一員になるための、ささやかで大切な儀式だった。
今、目の前で起きていることも、それと同じなのかもしれない。 非効率で、雑然とした「おしゃべり」に見えるこの時間は、本当は、バラバラになったコミュニティの糸を、一本一本、手探りで紡ぎ直している、大切な時間なんだ。
「パッチワークの本、ありますよ」 私は、いつの間にか声に出していた。ロマコメ号に戻り、棚から何冊か抜き出して持っていくと、さっきの女性が「わあ、ありがとう!」と嬉しそうに借りていってくれた。亜紀さんも、私を見て、小さく頷いた。
私の持ってきた「本」という秩序が、彼女たちの「知りたい」と「伝えたい」を結びつける、具体的な座標軸になった。
「お茶っこばかりで飽きられている」という声も最近は聞かれる。でも、今日見た光景は、合理的かどうかではなく、この時間がどれほど人を温め、繋いでいくかを静かに教えてくれていた。私の分類棚にある「雑談=非生産的」という項目は、今日、見直すべき項目リストの、一番上に移動した。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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