これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
東風公園の仮設団地。近所の中学校から、チャイムの音が風に乗って聞こえてくる。私の運行計画では、ここは「児童書の貸出が多い、活気あるステーション」。そのはずだった。
でも、今日聞いた声は、その分類棚には収まらない、静かな重さを持っていた。いつも歴史小説を借りに来てくれるおかあさんが、本のコンテナを覗き込みながら、ぽつりと言った。
「広い家に住んでたころはね、夜中にトイレに起きても、布団のへりなんて、踏んだこともなかったのにさ」
私の頭の中の索引カードが、カタカタと音を立てる。『分類:365.3(住居問題)』『キーワード:生活環境、狭隘化』……。でも、そんな乾いた分類では、到底掬いきれない言葉が続いた。
「仮設に移ってからは、踏んじゃうのよ。暗闇で、壁伝いにね、人の脚がどこにあるか、自分の脚で探りながら歩くんだから。おかしいよねえ」
――人の脚を探る。
その、あまりに生々しい手触りのある言葉に、息が詰まった。他者との物理的な境界線が、否応なく溶かされる感覚。それはアレの直後、避難所と化した図書館のあの冷たい床の上で、毛布一枚隔てて感じた見知らぬ誰かの寝息の生々しさに、とてもよく似ていた。
私が必死に守ろうとしている「秩序」とは、もしかしたら、人と人の間にきちんとした「距離」がある、ただそれだけのことだったのかもしれない。
ふと、カフカの『変身』を思い出した。ある朝、巨大な虫になった主人公が、今まで当たり前だった自分の部屋の「空間」に、変容した自分の身体がもううまく収まらなくなる、あの感覚。天井を這うために、長年親しんだ家具をどかさなければならなかった、あの切実な違和感。
おばあちゃんが語ったのも、それだ。自分の身体と、この世界との「間」が、ある日突然、書き換えられてしまったという、静かな戸惑い。
私が届ける本は、彼女が夜中に脚で探る数センチの空間の代わりにはなれない。でも、その切実な「声」を、私は業務日報の「定性的記録」の欄に、一体どう書けばいいのだろう。
この出来事は、まだ分類不能。私の心の書棚に、また一つ、行き場所の決まらない、けれどとても大切な一冊が差し込まれた。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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