移動図書館日記(62)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

岩手県の遠野市で暮らす中野ふみさんの静かな声が、私の深いところに澱のように残っている。彼女はかつて、被災地と呼ばれることになった東北の沿岸地域で、ボランティアをしていたという。あの大きなできごとのあと、多くの学校のグラウンドには仮設住宅が建ち、子どもたちは走る場所を失った。プールも、理科室も、バスに乗ってどこかへ借りに行かなければならない子どもも多かった、と。

私の頭の中にある「学校(NDC 370)」という分類棚には、「校庭」「歓声」「チャイム」といったタグが付いている。けれど、文さんが語った風景も、そして今、このここあん村にある風景も、そのタグとはずいぶんと違ってしまっている。

ここあん村のある校長先生が語った言葉を思い出す。

「子どもたちには、普通のことを普通にさせてやりたいんです」

――普通。

その言葉が、これほど重く響くなんて。「普通」が願望として語られる時点で、私たちの日常がいかに歪んでしまっているかを突きつけられる。私の守ろうとしている「本の貸出」という秩序も、その歪んだ土台の上で、必死にバランスをとっている積み木みたいなものなのかもしれない。

けれど、今日の巡回先でのこと。ロマコメ号の周りで、子どもたちが数人、地面に木の枝で何かを描いて遊んでいた。学校も学年も違う子たちだろう。夢中で遊び回り、やがて夕暮れのチャイムが鳴る頃、一人の子が慌てたように言った。

「ねえ、どこの子? 名前なに?」

「あ、おれ? 太陽」

「ふうん。じゃあね、太陽くん!」

名前も知らずに、ただその場にいたというだけで、あんなに笑い合っていたのか。私の分類思考は、まず「氏名」「住所」「年齢」を登録してから関係性を定義しようとする。でも、彼らは逆だ。関係性が生まれたあとで、最後に、名前というラベルを確認する。

エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』がふとよぎる。寄宿学校の少年たちが、様々な事情や孤独を抱えながらも、友情という自分たちだけの砦を築いていく姿。

グラウンドがなくても、仮設の狭い空き地でも、彼らはそこを「教室」にも「遊び場」にも変えてしまう。大人が「かわいそうに」と眉をひそめて同情している間に、彼らは自分たちの力で、新しい「普通」を作り出しているのかもしれない。

ロマコメ号が、そのための小さな「広場」になれているのなら。業務日報には、「児童数名の利用あり。交流の様子が見られた」とだけ記す。けれど、あの子たちの、別れ際の「じゃあね!」という声を、私は忘れないでおこうと思う。名前という分類よりも先にあった、あの屈託のない笑顔を。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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