移動図書館日記(79)

これは、日記という名を借りた私の記憶。 

某月某日

新しい巡回場所に向かう道は、まだどこかよそよそしい。ロマコメ号のタイヤが砂利を踏む音だけが、やけに大きく響いていた。

「霧のところ」への初運行。私は、自分の心の手帳に「のんびりとした場づくりができた」と満足そうに貼ろうとしていた。けれど、それがいかに上滑りしたものだったかを、すぐに思い知らされた。

そのおとうさんは、毛玉のついた紺色のセーターを着た、静かな人だった。少し背中を丸めながら、彼が差し出してきたのは、実用書の棚から選んだ『男のための料理本』。

「料理なんて、したことなかったんだ」

乾いた砂がこぼれるように静かな声。あのことで、おとうさんはひとりきりになってしまったという。なべを洗うのは面倒だ。でも、缶詰をそのまま食べる味気なさが、部屋の隅に溜まっていく。食事もそうだが、怖いのは、お風呂に入っているときだ。もし、急に心臓が止まってしまったら、誰にも気づかれないまま時間が過ぎていく。

「ひとりでもいいから、誰か残ってほしかった」

その一言が、私の胸の奥を、冷たい指先で突いた。不意に、向田邦子さんが食事について書いたさまざまなエッセーが思い出された。美味しいものを食べること、それをおいしいねと言い合える誰かがいること。そんな当たり前に思える、けれど壊れやすい日々の綴じ目が、あの日、無残に引きちぎられてしまったのだ。

私が感じた「のんびりした雰囲気」は、波の立たない水面に浮かんだ、ただの油の膜に過ぎなかったのかもしれない。その底には、まだ誰にも名付けられていない、重たい言葉たちが沈んでいる。

帰り際、おとうさんは本の表面を手のひらでそっと払うように撫でた。

「今夜は、何か作ってみるよ。ありがとうね」

少しだけ口の端を上げて。指先に残った、わずかな震えを、私は忘れない。

図書館への帰り道。ドライバーのHさんの声が、少し遠くに聞こえた。窓の外では、冬の薄い光が地面をなぞっている。マグボトルの蓋に残った紅茶が、少しだけ冷めていた。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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