移動図書館日記(80)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

「霧のところ」への運行から戻り、図書館地下の車庫で一日を振り返る。

犬の雑誌を大切そうに抱えてカウンターに来られたおかあさんのこと。「あのこと」で避難しなければならなかったとき、どうしてもワンコを連れていくことが許されなかったのだという。

「せめて、どこかへ逃げられるようにって、鎖を外してやったんだよ」

そう語る彼女の指先が、表紙の柴犬の写真をそっとなぞった。

「ワンコはいいね。気持ちが癒やされる」

おかあさんの指づかいはどこまでも優しかった。

集会所の引き戸が開き、賑やかな話し声が一瞬大きくなった。

「この前、支援でもらったじゃがいも、皮をむいたら中身がなくなっちゃいそうなくらい小さくて」

サロンの輪から抜けて外に出てきたおかあさんが笑う。以前は自分の畑で、何でも作っていたそうだ。土と向き合う時間を奪われ、今はこの集会所で、仲間と一目ずつ毛糸を編んでいる。複雑に絡まる感情を、編み物という新しい綴じ方で整理しているのかもしれない。「畑ができればねえ」という呟きは、切実な色をした空気となって、いつまでも消えそうになかった。

帰り道、ドライバーのHさんがぽつりと、自分も仮設住宅で暮らしていることを教えてくれた。

「仮設の風呂は狭くて、足も伸ばせないんだよ。家に戻れた人は、それだけでもう、うんと嬉しいんじゃないかな」

――身体に刻まれた生活の履歴。

フランシス・ホジソン・バーネットの『秘密の花園』の一節を思い出す。荒れ果てた庭を少しずつ手入れしていくように、霧の晴れたこの場所で、人々は自分たちの物語をもう一度、一文字ずつ丁寧に書き込み始めている。

今日の「定性的記録」の欄には、あのおかあさんが撫でていた犬の写真の光沢と、Hさんの少し寂しそうな横顔のことを、私だけの記号で記しておこうと思う。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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