これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
「霧のところ」への運行から戻り、図書館地下の車庫で一日を振り返る。
犬の雑誌を大切そうに抱えてカウンターに来られたおかあさんのこと。「あのこと」で避難しなければならなかったとき、どうしてもワンコを連れていくことが許されなかったのだという。
「せめて、どこかへ逃げられるようにって、鎖を外してやったんだよ」
そう語る彼女の指先が、表紙の柴犬の写真をそっとなぞった。
「ワンコはいいね。気持ちが癒やされる」
おかあさんの指づかいはどこまでも優しかった。
集会所の引き戸が開き、賑やかな話し声が一瞬大きくなった。
「この前、支援でもらったじゃがいも、皮をむいたら中身がなくなっちゃいそうなくらい小さくて」
サロンの輪から抜けて外に出てきたおかあさんが笑う。以前は自分の畑で、何でも作っていたそうだ。土と向き合う時間を奪われ、今はこの集会所で、仲間と一目ずつ毛糸を編んでいる。複雑に絡まる感情を、編み物という新しい綴じ方で整理しているのかもしれない。「畑ができればねえ」という呟きは、切実な色をした空気となって、いつまでも消えそうになかった。
帰り道、ドライバーのHさんがぽつりと、自分も仮設住宅で暮らしていることを教えてくれた。
「仮設の風呂は狭くて、足も伸ばせないんだよ。家に戻れた人は、それだけでもう、うんと嬉しいんじゃないかな」
――身体に刻まれた生活の履歴。
フランシス・ホジソン・バーネットの『秘密の花園』の一節を思い出す。荒れ果てた庭を少しずつ手入れしていくように、霧の晴れたこの場所で、人々は自分たちの物語をもう一度、一文字ずつ丁寧に書き込み始めている。
今日の「定性的記録」の欄には、あのおかあさんが撫でていた犬の写真の光沢と、Hさんの少し寂しそうな横顔のことを、私だけの記号で記しておこうと思う。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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