これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
日陰に入ると、空気がひやりと肌を刺すようになった。朝一番のロマコメ号は、鉄の塊であることを主張するように、ひどく冷え切っている。
「この前頼んでおいた本、届いたかな」
ハッチの向こうから、いつものおかあさんが顔を出した。七十歳過ぎくらいだろうか。ここあん村の女性の年齢はほんとうにわからない。
おかあさんが予約していたのは、色鮮やかな写真が並ぶ漬物の本。おかあさんは、少し恥ずかしそうに笑ってこう言った。
「『あのこと』と一緒に、頭の中の決まりごともどこかへ飛んでいっちゃったみたい。一番大事な分量まで、思い出せなくなっちゃって」
体に染み付いていたはずの味付けの加減までが、あの日の混沌に飲み込まれて、ぽっかりと空白になってしまう。少し前までなら、相手の記憶の欠落を前にして、勝手に焦っていたかもしれない。けれど、目の前で本を抱える彼女の横顔は、冬の陽だまりのように穏やかだった。
彼女はしばらく椅子に腰掛けて、最近のお気に入りを教えてくれた。大根と一緒に、柿を漬け込むのだという。
「お嫁さんが漬けるのは、なんだかさっぱりしすぎていて。私の口には、少し物足りないのよね」
柿の甘みが大根の瑞々しさを包み込む、その歯ごたえや、重石をかけるときの感触。おかあさんが語る言葉のひとつひとつに、長年繰り返されてきた生活の、確かな重みが宿っていた。
「今はみんな村の外に出て行っちゃったけれど、その分、自分の好きな味だけで漬けられるでしょう。それが一番いいわ」
ひとりきりになった食卓を、彼女は「不自由」ではなく「自由」と呼んだ。失ったものを数えるのをやめて、今、自分の手の中にある時間を、自分にとって最高の味に整えること。その強かさに、私の背中がすっと伸びる。
武田百合子さんの『富士日記』が頭をよぎった。そこにあるのは、飾らない言葉で綴られた、泥臭くも愛おしい日々の営み。何を食べ、どう笑い、どう生きたか。その、どの棚にも分類できないような、生々しい命の記録。
私の仕事は、彼女たちが忘れてしまった「分量」を、本の形にして手渡すこと。でも、本当に大切なのは、そこから先だ。彼女たちが自分の台所で、新しい物語の味付けを始めていくこと。
帰り際、彼女の指先に、大根を洗ったときの名残だろうか、冷たい水の匂いが微かに残っていた。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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