移動図書館日記(92)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

事務室で、坂上さんがやかんを火にかけた。シュンシュンと音がして、冷えていた空気が少しずつ温まっていく。私は机に広げた運行表を見て、今日の巡回ルートを確認した。

ロマコメ号の助手席に座る。運転手のHさんがエンジンをかけると、シートを通して背中に小刻みな振動が伝わってきた。車が動き出し、窓の外を村の景色が通り過ぎていく。

湖が見える高台の住宅地で車を降りる。側面にある重いハッチに手をかけ、ゆっくりと引き上げる。冷たい風が吹き込んで、棚に並んだ本のページがわずかに揺れた。

「この村でね、最後までやっていくことにしたのよ」

本を返しに来た女性が、ぽつりと言った。私はその本を受け取り、破れや汚れがないかページをめくって確かめる。彼女の手がかじかんでいる。何か言わなくちゃと思いながら、彼女のほうが言葉を継ぐのが先だった。

「アレのあといろいろ考えたけれど、やっぱりここの空が一番落ち着くのよね」

彼女は空を見上げて、小さく息を吐いた。私は「そうですね」と答えることしかできなかった。次の予約が入っていないことを確認して、その本を返却用のコンテナに入れる。

自分には、立派な理念など何もない。以前ブログで読んだ言葉が、今の自分の動きに一番近いと感じている。それは、「その場所で生きていくことを決めた人たちが、より安心して暮らせるように、力を尽くす」というもの。いつか、自分の言葉を見つけたい。

もちろん魔法のようなことはできない。今日読みたい一冊を渡すこと、その積み重ねがこの場所で生きる人たちの支えになると信じたい。棚の隅にある実用書の背表紙を指でなぞると、紙のざらついた感触が伝わってきた。だれかの役に立つために生まれたこの本の一生を、ふと思う。

事務所に戻ると、窓の外はもう暗かった。名札を外して、引き出しの決まった場所にしまう。コップ一杯のお湯を飲んで、喉を温めた。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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