第12話 割れた卵をめぐる観測

「……よろしい。では、続けようか、一樹」

黒崎部長が僕の新しい名前を口にした。その響きは、まだ僕の耳には馴染まなかったが、僕という存在を規定する、無視できないアンカーとなっていた。彼女は僕の原稿をトン、と指で叩く。

「早速だが、君が提案したクライマックスシーンを描写してみろ。この場でだ。制限時間は15分。読者の心を抉るだけの、絶望的な卵を一つ、ここに産み落としてみせろ」

「え、今からですか⁉」

「当然だ。インスピレーションという儚い現象は、その熱量が霧散する前に定着させねば、ただの気の迷いに成り下がる。それとも何か? 君の脳内では、すでにあの凡庸な涙のシーンがゲシュタルト崩壊を起こし、何も残っていないとでも言うのか?」

無理難題だ。だが、反論は許されない。僕は観念して、ノートとペンを取り出した。

隣では、天野さんがスケッチブックを開き、同じように鉛筆を握っている。彼女もまた、僕がこれから書く文章を、彼女なりの解釈で絵にしようとしているのだ。僕の背後では、堂島が建築雑誌をめくる音が、静かにページの終わりを告げていた。

四者四様の沈黙。創作という行為だけが、僕らを繋いでいる。

僕は、ペンを握りしめ、思考を集中させた。

雨に濡れたアスファルト。割れた卵。じっと見つめる主人公。

要素は三つ。単純なはずだ。だが――。

(……どう書けばいい?)

『アスファルトの上で、卵が割れていた』

これでは、ただの報告書だ。

『崩れた黄身は、彼の砕けた心のようだった』

ダメだ。黒崎部長が最も嫌う、安直で感傷的な比喩。

僕は、自分の持つ分析能力をフル回転させる。卵の粘性、アスファルトの質感、街灯の光の反射率、雨粒が黄身の膜を叩く音……。情報を分解し、再構築しようとすればするほど、言葉が、ただの記号の羅列になっていく。僕の指は、一行も書き出せないまま、止まっていた。

「……できたか?」

氷のような声が、沈黙を破った。見ると、黒崎部長が僕の手元を冷ややかに見下ろしている。

「……すみません、まだです」

「だろうな。君のその空っぽの頭では、絶望一つ満足に描写できんということだ」

彼女は溜息一つで僕を切り捨てると、今度は天野さんの手元に視線を移した。天野さんのスケッチブックには、数パターンの「割れた卵」が描かれていた。

「バスケ部。君はどうかね」

「あ、はい! えっと、色々描いてみたんですけど……」

天野さんが、おずおずとスケッチブックを机の中央に滑らせる。

一つは、漫画のようにデフォルメされ、キラキラとした効果線が描き加えられた、悲しげな卵。

もう一つは、リアルに描かれているが、なぜか美味しそうに見える、生命力に溢れた卵。

さらにもう一つは、黄身がぐちゃぐちゃに潰れ、もはや卵とは認識できない、ただのシミ。

黒崎部長は、全てのスケッチに一瞥をくれると、一言、吐き捨てた。

「全て却下だ。一つ目は感傷的すぎて不快。二つ目は、絶望ではなく朝食を想起させる。三つ目は、ただ汚いだけだ。君の描くものは、ことごとく本質からズレている」

「そ、そんな……」

天野さんの肩が、小さく落ちる。

僕が彼女に何か声をかけようとした、その時だった。

それまで沈黙を保っていた堂島が、スケッチブックをすっと引き寄せ、定規を当てながら口を開いた。

「構造的にも、問題がある」

「え?」

「この、リアルに描いたという二つ目のスケッチ。街灯の位置と主人公の視点から計算すると、アスファルトに落ちた卵の影の向きが、17度ほどズレている。これでは、まるで光源が二つあるかのように見える。致命的な破綻だ」

「じゅ、17度……⁉」

天野さんが、信じられないものを見る目で堂島を見ている。

文学的価値観と、物理的整合性。二方向からの、あまりにも的確で、容赦のないダメ出し。

部室の空気が、完全に膠着した。

書けない僕と、描けない天野さん。そして、完璧な「正しさ」だけを要求する、二人の批評家。

僕が放った「割れた卵」という一石は、波紋を広げるどころか、分厚い氷に阻まれて、その場に凍り付いてしまったようだった。

まずい。このままでは、全てが振り出しに戻る。

僕の思考が焦り始めた、その時。

「――もう、分かんないっ!」

天野さんが、叫ぶように言った。

彼女は、ぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜると、僕ら三人を順番に見回して、続けた。

「だって、見たことないんだもん! 雨の日に、アスファルトの上で割れた卵なんて! 頭の中で考えて描こうとするから、ダメなんだよ! 『魂』とか『構造』とか、難しいこと言う前にさ……」

彼女は、勢いよく立ち上がった。その瞳には、涙の代わりに、強い決意の光が宿っていた。

「……コンビニ、行こうよ」

「……は?」

僕と黒崎部長の声が、奇妙にハモった。

「コンビニで卵を買って、実際にアスファルトに落としてみればいいんだよ! そしたら、それがどんな色で、どんな形で、どんな影ができて、どんな気持ちになるのか、分かるじゃん! それが一番、早いよ!」

あまりにも単純で、あまりにも突飛で、そして、あまりにも――正しい提案だった。

僕らは、机上の空論に囚われすぎていた。文学も、構造も、全ては現実という土台の上にある。その、当たり前のことを見失っていた。

部室に、再び沈黙が落ちる。

黒崎部長は、呆気に取られたように天野さんを見ていたが、やがて、ふっ、と息を漏らした。それは、呆れと、ほんの少しの感心が混じり合った、複雑な音だった。

「……フィールドワーク、だと? くだらん。脳筋の発想だな」

彼女はそう言いながらも、ゆっくりと立ち上がった。

「だが、君たちのその思考の便秘を解消するには、丁度いいかもしれん。……行くぞ、凡俗ども。我々の物語の、最初の『取材』だ」

それは、文芸部の活動とは到底思えない、奇妙な遠足の始まりだった。

僕らは、それぞれの「正しさ」を一旦脇に置き、たった一つの割れた卵の「真実」を観測するために、夕暮れの校舎を後にした。

(第13話に続く)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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